A Person assigned a price tag ― 人間の価値 ―
#01 囚われる白鳥 | #02 猟犬の嗅覚 | #03 追跡と待機 | #04 奈落の花 | #05 取引の価値は
#06 暗澹たる地図
目覚める森の美女
「ここは――」
柔らかな若草の匂いに鼻孔を刺激され、一人の女性――エレノア・ジンその人――は目が覚める。
柔らかな丈のある若草と、身を包む淡い灰色のガウンによって、屋外にもかかわらず肌寒さを感じなかった。

怪我も無い。痛むところも無いようだ。
ああ、私は――あの時見知らぬ侵入者と共に、館を出て――そこからは記憶にない。
そうか。目隠しをされていたから、移動中の景色は見ていない。音――イヤーカフをされていたのかしら、振動は感じていても、何によって移動していたのかが思い出せない。
ここは――森の中?
針葉樹の隙間から、暖かな日光が差し込む程度には、周囲は明るい。
エレノアは上半身を起こすと、足下にある紙包みが視界に入った。
――何か書いてある。
Non-toxic. Rest assured.
『無毒――安心されたし』
軽く触れてみる。振動するようなものはないようだ。
紙包みを開けると、軍用のレーション――父の書物に記載されていた分類、ファースト・ストライク・レーション(FSR)のようだ。
高カロリーのスナック、ドライフルーツ、ナッツ、即席飲料。それに調味料とアクセサリーパック。
構成から見て、一日分。
一日分。
つまり――少なくとも今日中に殺すつもりはない。
太陽と影の長さと位置で、方向を読むことを試みる。
太陽――にしてはおかしいと感じる。
食事を少し口にし、考え事をし、再び見る。
それでも影の先端が動いていない。
手に触れている草を摘まみ千切り、ゆっくりと手放してみる。
緩やかに、草が風に流れていく。
もう一度。
更にもう一度。
――風向き、風量も、何か違和感がある。
自然の風なら、木々に遮られ、地形に沿い、わずかでも揺らぐはずだ。
だが、千切った草は三度とも、ほとんど同じ軌跡を描いた。
エレノアは立ち上がる。
頬に触れる風を確かめながら、数歩だけ場所を変えた。
――同じ。
更に十歩。
やはり同じだった。
「……空調?」
思わず声に出る。
頭上を見上げる。
針葉樹の梢。その向こうに青い空。
雲ひとつない。
いや――。
エレノアは目を細めた。
雲が、ないのではない。
動いていない。
そこで初めて、背筋を冷たいものが這った。
ここは森ではない。
森に見えるよう、造られた場所だ。
ここは――何処だ。
人間の、動物的な直感が、明らかに危険を、知らせている。
水分を補給し、単調な味覚の固形物を喉奥に通し、深く息を吐き、吸う。
動くことで、何かが分かるかもしれない。
――少なくとも此処に居ても、何も解決はしないのだから。
エレノアは立ち上がり、ドレスの裾の埃を軽く払い、歩く。
時間は限られている。
捕捉される牝鹿
「ターゲット、グリッド2036、セクター452。ビーコン正常に作動」
「――よし。そのまま捕捉せよ」
「了解」
方眼上に区切られた巨大スクリーン上に、オレンジのドットが表示され、ゆっくり位置を変えている。
「まさか小型ビーコンが仕込まれているとは、思わなかったでしょうね、お姫様は」

呆れるように、ブロンドの妖艶な女性――エリス・ヴェインは、背後で操作卓をタッチし続けているタロス・グレイヴスに言う。
「――悪趣味なことは君もそうだが、デイモスも大概だな」
「無数のマイクロカプセルの中の生き残りが、体内で発信し続ける。私じゃ無いわよこんな芸当は」
「てっきり君の入れ知恵かと思ったが」
「お姫様は大抵、毒林檎を囓るものよ。――レーションに配合された無数のマイクロカプセルの中の『生き残り』が、食道、胃、小腸と移動していく。デイモスらしいわ」
「ある意味、毒だ。本質は変わらない」
タロスは視線を合わせず、エリスに答える。
「さあ、お姫様はどの時点で気づくのかしら」
空恐ろしい微笑をたたえながら、エリスはその場を後にした。
「――異常者め」
吐き捨てるようにタロスは呟いた。
塔の支配者
「――財団側の反応はどうか」
「回答は無い」
巨大なシステムデスクの背後には、その瞬間の株・債券・金・原油――ありとあらゆる金融市場の数値が、デジタルパネルに表示されている。
「総帥からは猶予を与えよ、との命を受けてはいるが――しかし、何故娘を此処に連れてきた」
苛立つように痩躯の男性――クロノス・オリュンピュアは吠えた。
「作戦上の齟齬だ」
極めて冷静に、巨軀の男、デイモス・クロスは答える。
「『あれ』に触れさせてはならん――絶対に、だ!」
「問題ない。指定範囲からは明確に外してある」
「範囲の問題を言っているのではない!」
「位置を24時間捕捉している。万が一問題が生ずれば――」
「速やかに消せ」
「無論」
デイモスは特殊警棒・エニュオを床に軽く突き、踵を返す。
「持ち場に戻る」
「監視を怠るな」
クロノスの言葉に、あえてデイモスは反応しなかった。
ドアが閉じられ、不気味なまでの静寂が周囲を支配した。
「『あれ』の声が――聞こえるッ!聞こえるんだ!」
クロノスは特殊イヤーカフを装着し直す。
それは、彼の静寂を約束するはずだった。
だが――今日だけは違った。
遮断されているはずの『声』が、なおも頭蓋の内側で木霊している。
「黙れ――俺は、俺は――」
膝から崩れ、クロノスは髪を掻きむしるように床に突っ伏したのだった。

花は謳う
「グリッド517、セクター21。信号群、急速に減衰――ロストしました」
「流石に気付いたか――強制的に嘔吐でもしたか」
タロス・グレイヴスはイージス・コアの操作卓を凄まじい勢いで叩き出す。
いや、その行為はまるで、悲壮なラプソディーを奏でるピアノの演奏のようでもあった。
「オペレーション・ダイダロスを敢行する」
「構造転移を確認しました。区画再構成、磁場、空調、照明の強制コントロール」
「消えたのならば――逃れられぬようにするまで」
悲壮なラプソディーは次第に調子を変え、やがて『怒りの日』を思わせる、荘厳で不吉なレクイエムへと変貌していった。
空間そのものが、手負いの牝鹿へ『裁き』を下す――。


――喉に残る酸味と苦味、何度も収縮した胃の鈍痛に耐えながら、エレノアは歩みを進めていた。
風の方向が、変わった気がした。
立ち止まり、足下の草を一本千切る。
手を離す。
先ほどとは逆へ流れた。
「……?」
もう一本。
同じだった。
エレノアは空を見上げる。
太陽の位置まで――変わっている。
振り返る。
先ほどの嘔吐物が――無い。
歩みを進めながら、軌跡として残してきたはずの、細かく千切ったレーションの固形物も。
――無い。
耳鳴りがする。
何かが――変わっている。
ガウンの裾を思い切り引き裂き、近くの木の枝に結ぶ。
そこから絶対に視線を外さず、ゆっくりと後退した。
空間が、軋んでいる。
いや――そう感じる。
足裏には、ごく微かな振動。
エレノアは瞬きすら惜しむように、枝に結んだ布を見つめ続ける。
なおも観察する。
木は動いていない。
だが――。
隣の木との間隔が、少しずつ広がっている。
「……空間そのものを――変化させている?」
結んだガウンの裾を、なおも注視する。
裾を結んだ木――仮にAとする。
それを中心として、周囲の木々が動いている。
無秩序ではない。
まるで何らかの計算式に従うように、一定の規則をもって。
エレノアは、その意味に気づいた。
「包囲している――のね」
ならば――やるべきことは一つしかない。
場所が自分を取り囲むのならば、その裏をかく。
冷静に。
そして、時に大胆に――。
父の教えだ。
考えろ。
そして、行動。
「計算式ならば――解はある」
エレノアは、自身の思考に賭けた。

アイガイオン・タワー最上階。
「何故即座に消さない!私は――『即座に抹消せよ』と言ったはずだッ!」
『位置が特定できません。塩素ガスを注入、或いは真空にする手もありますが――』
仮想スクリーン上のタロスが冷静に言う。
「それは駄目だ――ッ!許可できん!」
『空間位相により、目標を追い込み、圧殺させます。効率を優先させますが』
「――可能か」
『CEO。効率優先と申しました。一切のイレギュラーはあり得ません』
「――任せる。だが『あれ』には触れるな」
『ゼロポイントは位相転移の対象外です』
無表情でタロスは返答し、スクリーン通信を切った。
「どいつもこいつも!役に立たん!」
ダン!と卓上を殴りつけ、クロノスは苛立ちを隠せなかった。

――思った通り、規則性を持って、空間そのものを構造変更させている。
こちらの動きが読めないから、囲い込むという考え方にも、賛成はする。
――賛成はするが、認可した覚えはない。
観察すると、設計者の思想が如実に表れている。
数学者が追い求める美しい数式のように、無駄がない。
だから――つけ込む隙がある。
少なくとも設計者は、こう考えるはずだ。
――逃げ込む方向を予測し、無駄なく効果的に包囲する。
そこには、人間という、最大のバグを見誤っている。
人間とは、非効率と知りながら、それを選ぶ。
時には、自ら損をすることさえ承知で。
そこまで予測するには――神にでもなるしかない。
最も狭い場所。
最も危険に見える場所。
最も「人間なら避ける」とシステムが判断する方向。
そこへ行く。
――これは賭けだ。
それでも、自分を信じる。
エレノア・ジンを――信じる。
「――ジ・エンド」
演算卓の最後のキーを叩く手を止め、タロス・グレイヴスはそう宣告した。

「終了しました。目標予想ポイントの位相圧縮を確認」
オペレーターの報告にタロスは表情を変えず、
「そのポイントの空気を全て抜け」
と、命じた。
「了解しました」
モニターの数値が見る見るうちに変化していく。
気圧。
酸素濃度。
温度。
そして、
「規定値到達」
タロスは待つ。
数秒。
「……生体反応は」
タロスは当然のようにオペレーターに聞く。
沈黙。
「どうした。報告せよ」
「目標――確認できません!」
オペレーターが信じられないように叫ぶ。
「ありえん」
「全ログを再計算。直近三十秒の位相転移履歴を洗え」
「は、はい!」
再び鍵盤を叩くように指が走る。
だが――先ほどまでのレクイエムとは違う。
初めて、旋律に乱れが生じていた。

それを見遣る影。
――魔女、エリス・ヴェイン。
「――『Project-V』を起動させなさい」
側近に短く命じる。
「起動シークエンス移行。カウント、99999より開始」
「――だから効率など私は信じない。信じるものを抱きしめるのは醜い所業よ」
黄金の林檎を弄びながら、エリスは口角を歪めた。
すんでのところだった――。
エレノアの『賭け』があと一歩、あと一瞬遅かったならば、今まさに繰り広げられている、眼前の『地獄の光景』に巻き込まれていた。
だが――彼女は素直に喜べない。
彼女の周囲に生息していた野鳥は、次々と墜落していく。
羚羊は断末魔の悲鳴を、今なお上げている。
挟み込む。
すり潰す。
窒息させる。
ありとあらゆる悪魔の所業が、あの空間で巻き起こっているのだ。
見なかったことにしたい。
しかし、彼女はそれでも受け止める。
重い枷のように――黒い染みとなって、エレノアの心に残った。
道は開けていた。
エレノアは歩く。
不意に――沈む彼女の心に、灯火が、仄かな明かりが点った気がした。
それは、心という静かな水面に、小石が落とされたような波紋のようでもあった。
天上に輝く偽りの太陽とは違う、暖かな光。
柔らかな薫風が、頬を撫でる。
灰色に沈んでいた視界に、色彩が蘇っていく。
エレノアの歩みに、確かな力が漲る。
一歩。
一歩。
歩みを進めるたび、心の底から力が泉のように湧き上がってくる。
頬が熱い。
乱れていた呼吸が、いつしか規則正しく整っている。
歩む先に、希望を見いだした思いに駆られる。

「止めて、止めてくれ――俺を、俺をッ! 赦してくれ、俺は、君を――君を守れなかったッ! だから、だから――!」
アイガイオン・タワー最上階。
その一室で、クロノスは狂ったように叫び、姿なき何者かへ『赦し』を乞うていた。
「赦してくれ――俺は、俺は――」
だが、その異常な叫びが外へ届くことはない。
完全な無音状態を維持するために造られた特殊な部屋が、クロノス自身の声さえ無情に閉じ込めていた。
エレノアは聞いた。
いや――聞こえた。
それは、愛の歌。
それは、慈しみの歌。
それは、勇気の歌。
言葉に置き換えるより先に、心へ触れてくる『歌』。
それをエレノアは、確かに聞いたのだ。
「……どこ?」
問いかける。
返事はない。
だが――分かる。
不思議だった。
右でもない。
左でもない。
遠くから聞こえてくるわけでもない。
その『歌』自身が、己の在処を知っている。
そして――伝えている。
こちらへ。
エレノアは歩き出した。
一歩進む。
胸の奥に灯った光が、ほんの少しだけ強くなる。
方向を変える。
――違う。
先ほどまで満ちていた温もりが、わずかに遠ざかる。
戻る。
再び、暖かい。
「……あなたが、教えているのね」
返事はない。
それでもエレノアは微笑んだ。
声なき歌の導くままに、歩く。
人工の太陽も。
偽りの風も。
組み替えられる森も。
もはや彼女を惑わせることはできなかった。
目印など必要ない。
方角さえ、必要なかった。
心の奥に生まれる波紋だけを頼りに、エレノアは進む。
そして――。
木々が途切れた。
その先に、それまでの人工林とは明らかに異なる空間があった。
エレノアは、立ち止まる。
歌が――止んだ。
いや。
違う。
あまりにも近くなったために、もはや『歌』として聞き分けることができないのだ。
呼吸する空気のように。
肌を包む温度のように。
それは、周囲のすべてに満ちていた。
エレノアはゆっくりと顔を上げる。
そこに――。
『彼女』はいた。

――神々しさ。
いや――違う。
ただそこにいる。
花に触れ、土に触れ、呼吸している。
それだけなのに、エレノアの胸を激しく揺さぶる何かが、彼女から溢れていた。
「あなたは――誰ですか」
女性は顔を上げた。
まるで、ずっとエレノアが来ることを知っていたかのように微笑む。
「デメテル――デメテル・ケレス」
ケレス――。
その姓を聞いた瞬間、エレノアの脳裏を幾つもの疑問が駆け巡った。
だが、それらすべてを脇へ追いやるように、デメテルは言う。
「お腹が空いているでしょう――たった今、収穫したのよ」
豊かな黒土から掘り出されたばかりの根菜を、デメテルは嬉しそうに見せた。
「すぐ支度するわね。さあ、奥へどうぞ――『エレノアさん』」
エレノアの足が、止まった。
待宵草
彼女――デメテル・ケレスの住まいは、彼女自身が放つような眩しさとは対照的に、実に簡素な造りをしていた。
一人で住まうには十分すぎるほどの間取りと、落ち着いたアースカラーで統一された室内の雰囲気。
そして、彼女の趣味でもあるらしい、料理の邪魔をしない程度のカウンターキッチンが備わっている。
鼻腔をくすぐる、なんとも言えない芳醇な香り。
「どうぞ――粗末だけど」
とんでもない、とエレノアは思った。

カブのポタージュは、ブイヨンと濃厚な生クリームでじっくりと煮込んであり、一口運ぶだけで、優しい味と温かみを感じられる。
もう一品は、カブのロースト。
先ほど収穫されたカブを、ローズマリーと塩、オリーブオイルを加え、オーブンでローストしたものだ。
素朴で、家庭の味、といった感じがして、亡き母の味を思わせた。
「……美味しい」
思わずエレノアの口から出た言葉に、
「良かった」
と、デメテルは笑みを浮かべた。
「あなたの聞きたいことは分かる。でも――答えられないこともあるかもしれないわ」
デメテルは、申し訳なさそうでもなく、突き放すでもなく言った。
ただ、そういうものなのだと伝えるように。
エレノアはスプーンを置いた。
聞きたい。
ここはどこなのか。
あの『歌』は何なのか。
何故、自分の名前を知っているのか。
そして――。
「ケレス……という名前を、私は――」
喉が詰まった。
違う。
それを聞きたいのではない。
伝えたいのだ。
あなたに。
あなたの息子かもしれない人のことを。
あなたを母と呼ぶのかもしれない人のことを。
それなのに、言葉が続かない。
胸の奥に押し込めていたものが、言葉より先に込み上げてくる。
「私……」
それだけだった。
エレノアは俯いた。
「ごめんなさい。私――何から話せばいいのか……」
デメテルは何も急かさなかった。
テーブル越しに、ただ穏やかに彼女を見つめている。
「急がなくていいわ」
その一言で――。
エレノアの目から、ようやく一粒、涙が落ちた。
「優しいのね、あなた」
デメテルは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、エレノアの感情をそのまま受け止める。
――それで充分だった。
堰を切ったように、エレノアは泣いた。
デメテルは何も言わず、ただ優しく、その髪を撫でていた。

この文章のそばに、灯りを。
名前も言葉もいりません。もう一度押すと取り消せます。


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