A Person assigned a price tag―人間の価値― #06 暗澹たる地図

A Person assigned a price tag ― 人間の価値 ―
#01 囚われる白鳥 | #02 猟犬の嗅覚 | #03 追跡と待機 | #04 奈落の花 | #05 取引の価値は

#06 暗澹たる地図

指針なき地図

凄惨な夜が明けた。

オブシディアン・マナーの外壁に、朝の陽光が差し込む。

庭の芝はところどころ踏み荒らされ、まだ乾ききらない朝露の上に、昨夜の騒乱の痕跡が残っていた。

鳥の声だけが、何事もなかったように霧の森域へ響いている。

それがかえって、昨夜起きたことを現実離れしたものに思わせた。

「――なるほど、状況は理解した。で、クララ、エレノアの居場所を特定する手掛かりはそれだけなのか?」

「そうね――現状は、グエット・カムさんが言ったことのみよ」

ここ、オブシディアン・マナーの小会議室には、クララ・ハルモニア、シビル・アドラー、ソフィア・ウェーバー、そして、トマス・ヴェイルがいる。

「ねぇクララ、今回の会議はあずきとそら様はご承知なの?」

ソフィアの問いに、クララはかぶりを振って、

「私の独断よ」

「そう。――事情が事情だから、というわけね」

あえて、ソフィアはそれ以上を聞かなかった。

「で――あれは何なんだ?」

訝しげにシビルが視線を送った先には、見るからに怪しい存在が、ごく当然のように座っている。

『俺のこと?』

「それ」は、当然のように答える。

「お前の他に誰がいる、レオ。――何だ、その雑な映像体は」

レオ・ケレス――のようなもの、と表現するに相応しい、ノイズにまみれた実体のないものを指して、苛立つようにシビルが問うた。

『わかんない』

「代理を立てるとは恐れいるわね」

ソフィアが言うと、

『うん、代理だね。そう、あいつは言ったよ』

「……あいつ?」

と、クララが思わず聞き返した。

「じゃあお前はレオの代理なんだな?」

さらに苛つくようにシビルは問う。

『そうっぽい』

「ふざけてるな。いかにもレオらしい芸当だ。――で、レオはどこにいるんだ」

『言うなって言われた』

「『言うな』ってことは、どこかには居るわけね」

クララがすかさず鋭い質問を投げる。

『そうだね。居場所は言うなって。それと、とりあえずここに出てて、って』

「まさしく『代理』だわ」

ソフィアが呆れるように言う。

「――もう一度聞く。お前は何者なんだ」

シビルの詰問に、

『わかんない――あ、もう消えちゃう』

レオ・ケレスみたいな『何か』は、その存在がその場から消えようとしていた。

「おい待て!まだ聞きたいことが――」

『じゃあまた、お姉さん。バーイ』

『何か』は消えてしまった。

「――何なんだ、あれは」

トマスが頭を抱えてそう言うと、

「気にしないほうがいい。トリックの一種だ」

シビルがそう答える。

「そうか。――あんたらのお仲間は色んなのが居るんだな」

「一緒にするな」

シビルは、心底うんざりしたようにぼやいた。


トマスは話を聞きながら、時折スマートフォンへ視線を落としていた。

「三又戟――トライデントは、あまりにも多くの場所で使われているわ」

ソフィアは指を折る。

「マセラティの紋章。ウクライナの国章、トルィーズブ。米海軍特殊戦部隊の徽章。そして――アメリカとイギリスが運用する潜水艦発射弾道ミサイル、トライデント」

「つまり、それだけでは何も絞れない」

シビルが切り捨てるように言った。

「海という言葉まで含めれば、もっと厄介だ。三叉槍はポセイドン――あるいはネプチューンの象徴でもある」

「英国なら、ブリタニアもそうね」

ソフィアが応じる。

「三叉槍を持つ海の擬人化。『Britannia rules the waves』――海洋覇権の象徴として読むこともできる」

「詩的な意味ではね。――預言なら、むしろそっちの方があり得るかもしれないけれど」

「……待って。『三又戟』そのものじゃないのかもしれない」

クララが間に入るように言った。

「どういう意味?」

ソフィアが問うと、

「海が、三つに分かれている――そう見るべきではないかしら」

「なるほど。意匠ではなく、形から入るということか。――しかし、同時に『西方の地』とも言ったぞ。それはどのように解釈するんだ」

トマスがそれに同調するように言う。

「――その前に、『西』とはどこから見た西だ?」

シビルが問い返した。

「……基準点ね」

クララが呟く。

「そうだ。地図で『西』と言われても、起点がなければ何の意味もない。ここからなのか、奴らの拠点からなのか、それともカサンドラが見た何かを基準にしているのか」

「預言だから、必ずしも地理的な西とは限らないわ」

ソフィアが腕を組む。

「夕日の沈む場所、終わり、彼岸――文化的には『西』そのものが象徴として使われることもある」

「それを始めると、また地図が広がるぞ」

トマスが苦い顔をした。

「ええ。だから今は削りましょう」

クララは卓上の地図へ視線を落とした。

「『三つに分かれた海』。そして、その何かから見て『西方にある土地』。まずはそれだけ」

全員は卓上に広げられた世界地図を見つめた。

「――その条件なら、かなり絞られるわよ」

長身のブロンドの女性が、全員の間に割って入るように、世界地図の上へ指を滑らせた。

「貴女は?」

「ああ、俺が呼んだ。彼女は――」

「Cahier(カイエ)よ、よろしく」

優雅に微笑む。

トマスは彼女を見て、一瞬だけ何か言いたげな顔をした。
だが、すぐにいつもの表情へ戻る。

「……そういうことにしておこう」

「まずはインド半島。西側のアラビア海、東側のベンガル湾、南側のインド洋ね」

彼女の指が、世界地図の上を滑る。

「次はアラビア半島。西側の紅海、南側のアラビア海、東側のペルシャ湾」

「……待て」

トマスが思わず口を挟んだ。

「まだあるのか?」

「あるわ」

カイエは涼しい顔で続けた。

「シナイ半島。北側の地中海、西側のスエズ湾、東側のアカバ湾。最後は――フロリダ半島。西側のメキシコ湾、東側の大西洋、南側……」

ほんの一瞬だけ、カイエは地図の一点に指を置いた。

「カリブ海圏」

「確かに、条件には合うわね――でも」

ソフィアは一旦同意するも、

「でも?」

「彼らがそんな『分かりやすい』場所を選ぶかしら?」

「『分かりやすい』って、何を基準に?」

カイエは、当然の疑問でも口にするように問い返した。

「いや、逆だろう」

シビルが地図を見たまま言った。

「分りやすすぎるから選ばない、と、こちらが考えることまで含めて利用する連中だ」

「つまり、心理を読み始めたら堂々巡りだな」

トマスは軽くため息をついた。

「なら、『分かりやすいかどうか』は判断材料から外しましょう。私たちが知りたいのは、彼らならどこを選ぶかではなく――カサンドラが何を見たのか、よ」

クララはそう言って、カサンドラ――正確には、グエット・カムを経由して伝えられた言葉を反芻する。

「西方の地、三又戟の海――トマスさん、レジナルドから他に何か聞いていないかしら」

トマスは、ゆっくりとかぶりを振った。

「いや。それだけだ。あの状況だ――レジナルドも、聞き取った言葉を拾うので精一杯だったらしい」


「本人が覚えていますわ」

不意に聞こえた声に、シビルのペン先が止まった。

誰もが同時に入口へ視線を向ける。

ドアの脇に立つ侍女。その肩を借りるようにして、一人の女性が立っていた。

「カサンドラ――!」

そこには、顔を蒼白にしながらも、なお毅然とした立ち居振る舞いを崩さないカサンドラ・クアンその人がいた。

「何をしている!」

真っ先に声を荒らげたのはシビルだった。

「君は、まだ起き上がっていい状態じゃ――」

「あら。私についての会議でしょう?」

カサンドラは、さも当然のことのように答える。

「なら、本人を呼ばないのは礼を欠いているのではなくって?」

「それとこれとは――!」

「――預言の言葉でしょう、皆さんが知りたいのは」

「君は無理をしなくてもいい!」

カサンドラは駆け寄ろうとするシビルを制し、侍女に支えられながら、席に着く。

「――覚えているの?」

クララの問いに、

「――三叉戟之海、衰頹與繁榮、索祭之矛、雷霆、雷霆、雷霆――――」

「古い中国語だな――漢文に近い」

シビルは素早くペンを走らせる。

「書けましたの?」

「ああ。もう一度頼む」

「……嫌ですわ」

「何?」

「もう一度口にするのは、嫌」

「分かった――聞き取れた限りは書き留めた」

しばし、誰も口を開かなかった。

紙の上には、異様な言葉だけが残っている。

三叉戟之海。
衰頹與繁榮。
索祭之矛。
雷霆、雷霆、雷霆。

「多くを喋ると疲れますわね――甘いものが欲しいわ」

クララはその言葉の裏側を読む。

彼女は心に大きなダメージを負っている。

それでも精神の均衡を失わず、毅然としていられるのは、まさにカサンドラの胆力なのだろう。

「そう思って、シュクル・ド・ブリュムの新作を、ホールで用意してあるわよ」

「誕生日以来ですわね――まあ、ポワール・ピスターシュですのね」

カサンドラの表情が、ほんのわずかにほどけた。

西洋梨を惜しげもなく使い、ピスタチオを練り込んだアーモンドクリームとともに焼き上げたタルトだった。

「一切れだけいただきますわ」

「ホールで用意した意味がないでしょう」

「では――少し大きめに」

カサンドラは静かにフォークを入れ、一口。

直後の彼女の至福の笑顔が、タルトの味を保証しているようであった。


至福の時間を堪能していたカサンドラであったが、大事をとってクララの指示で、侍女らに再び休ませることになった。

不服そうな態度の彼女であったが、立ち上がろうとした瞬間、わずかに足元が揺らいだ。

「……ほら」

クララが呆れたように言う。

「大丈夫ですわ」

「そういう人ほど、大丈夫じゃないのよ」

カサンドラは何か言い返そうとして――やめた。

「では、続きは後ほど伺いますわ」

そう言い残し、侍女に支えられながら部屋を後にした。

「……さて。問題はこっちだな」

トマスが、問題のメモを前にして、顎を擦る。

「まずは、『三叉戟之海』――これは先ほどの『三又戟の海』だな」

「なら、次の『衰頹與繁榮』って、どういう意味かしら」

カイエが問うと、

「衰頹と繁栄――といったところだろう」

シビルが続ける。

「次の言葉はもっと難解よ――『索祭之矛』」

ソフィアが眉を顰める。

「祭祀の矛――か」

シビルがメモを見つめた。

「どういうこと?」

「文字どおりなら、祭祀に用いる矛だ。だが――」

「だが?」

「供犠だとすれば、途端に血生臭くなる。生贄を必要とする何か――そう読むこともできる」

カイエがそこに割り込むように、

「これ、文章じゃないんじゃない?」

「どういう意味?」

ソフィアが、カイエの方を見る。

「四つとも、別々のものを指してる。

『三叉戟の海』は場所。
『頹敗と繁栄』はその場所の特徴。
『祭祀の矛』はそこにある何か。

そして――」

カイエは最後の文字列を指した。

「『雷霆』は、三回起こる」

「確かに、私たちは預言を一貫した文章だと思い込んでいたのかもしれないわね」

クララは続けて、

「なら、一つずつ、分解して考えてみましょう」

赤ペンで、文章を4行に仕切って見せた。


六分儀

四つに分けられた言葉を前に、しばらく誰も口を開かなかった。

地図に地名を探す作業は、もう終わった。

必要なのは、この四つの線が交わる場所を探すことだった。

「まず、『三叉戟之海』は候補が四つ」

カイエが世界地図に一つずつ印を入れていく。

「インド半島、アラビア半島、シナイ半島、そしてフロリダ半島」

「そこに衰頹と繁栄を象徴するものはあるのか?」

トマスが問う。

「……駄目ね」

「何がだ?」

「全部、当てはまる」

「『繁栄している場所』と『衰退している場所』がある、という程度では条件にならないわね。世界中どこにだってあるもの」

カイエの言葉に、ソフィアが続ける。

「では、『衰頹與繁榮』そのものを、もっと文字通りに考える必要があるのかもしれない」

クララがそう言うと、

「『繁栄』の中に『衰頹』があるのではなく――『衰頹』と『繁栄』が、同じ場所に並んで存在している?」

カイエが重ねて問う。

「あるいは、同じ場所が一度衰え、再び繁栄した」

シビルが書き足す。

「時間軸か」

トマスが顎を擦った。

カイエは地図の上に置いた四つの印を見比べた。

「……まだ消せない」

「一つも?」

「一つも」

シビルが舌打ちする。

「なら次だ。『索祭之矛』」

「例えば――宗教的に考えるならば、フロリダは外れないか?逆に、シナイやインド、アラビアは分かりやすい」

トマスが言うと、

「宗教史で絞るのは危険よ。祭祀の痕跡なんて、人が長く住んだ土地ならほとんどどこにでもあるわ」

ソフィアがゆっくりとかぶりを振る。

「祭祀は分かる。じゃあ、矛って何なのかしら?」

「矛って、刺すものよね」

「……随分と身も蓋もないな」

シビルが眉を寄せる。

「でも、そうでしょう? 細長くて、先端があって、何かを貫く」

カイエは四つの地点を指で辿る。

「武器の名前じゃなくて、形を言っている可能性は?」

「……待って。『祭祀』も名詞そのものじゃなくて、性質なのかもしれない」

クララが思いついたように言う。

「どういうこと?」

「何かを捧げることで成立する矛」

「人間を食う兵器、という意味なら……悪趣味どころの話じゃないな」

「それが兵器なのか、施設なのか、象徴なのかは分からん」

トマスはかぶりを振る。

「なら、『祭祀』で場所を絞るのはやめよう」

トマスが言った。

「先に『矛』を探す」

「賛成」

クララが赤ペンで『祭祀』に一本線を引き、『矛』を囲んだ。

「武器。形。名称。それから――機能」

「四通りね」

カイエが答える。

「雷霆、雷霆、雷霆――なぜ三度も繰り返してるのだろう」

「意味ある言葉だから?」

「回数よ」

不意に、カイエが声を上げた。

「回数?」

「三叉戟の海――からは四つの場所が浮上した。なら、最後の言葉も意味だけを見る必要はないわ」

カイエは、シビルのメモを指で三度叩いた。

「雷霆。雷霆。雷霆。――三つあるのよ」

「雷が三回落ちる、ということか?」

「分からない。三回なのか、三基なのか、三発なのか、三箇所なのか。でも――『三』は条件にできる」

「どういうこと?」

「『矛』が三つある、とか」

一瞬、全員が黙った。

「あるいは――三つの『雷霆』が、一つの『矛』を成立させている」

「じゃあ、『索祭之矛』と『雷霆、雷霆、雷霆』は、別々の条件ではない可能性もある?」

「――この預言には、無駄な言葉がないと考えた方がいい」

シビルはメモを見つめる。

「意味だけじゃない。数も、順序も、繰り返しも――全部が条件だ」

「なら、四行に分けたことにも拘らない方がいいわね」

クララは先ほどの『索祭』に再び丸を入れる。

「分解するために線を引いた。でも、本当に四つの文だとは限らない」

「隣り合う言葉が、一組になっているかもしれない」

「あるいは全部が一つのものを、違う方向から見ている」

「……だったら、次に探すのは『雷』じゃないな」

「何を?」

「三つで一つになるものだ」


狩人と蠍

「ポインターセターよりピットブル。目標を包囲した」

『ピットブルよりポインターセター。オペレーション・オリオーン、アクション』

「ヤー」

骨伝導インカムでの通信を切る、作業着の集団。

オブシディアン・マナー深くに入り込んだ、この侵入者たちは、先刻、無慈悲な麻袋の山々を築いてきたあの集団であった。

各々、件の改造銃を手に持ち、敷地内の死角に巧みに入り込み、息を殺すように館を取り囲んでいた。

ハンドサインを巧みに使い、集団の指揮者は仲間に手早く指示を伝えている。


「予想通りだ」

サー・レジナルドは館の別室の小窓から、その状況を観察していた。

「――手慣れているな。指示系統に無駄がない」

ウェブリー・フォスベリー・カスタムをホルスターから外す。

「だが、教科書通りだ」

サー・レジナルドは彼らの後方を見遣る。

「――お手並み拝見だな、ミス・グエット・カム」


集団の一人の男が木陰に身を隠し、改造銃の安全装置を外す。
周囲に視線を配り、次の移動場所へ目を向けた――その時。

影が音もなく、男の背後に降り立つ。

瞬間。
男の右手首を、ひゅっ、と何かが走った。

鮮血。

男が痛みに声を上げるより早く、口を塞がれる。

「男でしょう? 死にはしない」
手から滑り落ちた改造銃を、影は地面に触れる寸前で受け止めた。

急所に拳が沈む。
男は声もなく崩れ落ちた。

その瞬間、影の腰にあるナイフの意匠が視界に入った。

――赤い蠍。


その直後、敷地内では異様な状況が続いている。

一人の足元が、不意に消えた。
地面が崩れ、そのまま腰まで落ちる。

次の瞬間。

がちん。

穴の底で、虎挟みが閉じた。

「メーデー、メーデー! ブービートラップがあるぞ!」

それ以降、彼らにとって、森のすべてが疑わしくなった。

風に揺れた枝。
草むらの擦れる音。
木漏れ日の一瞬のちらつき。

そのすべてに銃口が向けられる。

敵がどこにいるのか分からないのではない。

どこまでが敵なのか、分からなくなり始めていた。


「何か、外が騒がしくない?」

館の外の物音に気づき、ソフィアが訝しげに聞いた。

「――庭作業でもしているのではなくって?」

クララは視線を向けず、平然とそう答える。

「そうかなぁ……」

納得がいかない様子で、ソフィアは窓の外へ目を向けた。

ちょうどその時。

庭木の向こうで、何かが一瞬だけ宙を舞った。

「……今、人が飛ばなかった?」

「気のせいよ」

相変わらずクララはまともに応じない。

「気のせいねぇ……」


「――では、我々自身を囮に使う、と?」

緊急会議の前、クララはサー・レジナルドと、別室で会話をしていた。

「平たく言えばそうです」

「あっさりと仰るのね」

「作戦とは得てしてそうなります」

「カサンドラも、囮に?」

クララは寝室で休んでいるカサンドラに、気を向けた。

「はい。ミス・グエット・カムの提案でもあります」

自身の主すら、囮に使ってまでも遂行すべき作戦とは――。

「賊をおびき寄せ、その『臭い』を追跡するのです」

「それは――あえて賊を逃がすということですか?」

「正確には――逃げたと思わせます」

腑に落ちない様子のクララを見て、サー・レジナルドは続けた。

「人は追われていると感じれば、逃げ道を選ぶ。ですが、助かったと思えば――帰る場所を選ぶ」

蟻の列を辿れば、やがて巣に行き着く。
それと同じことだ。

「トマスの令嬢を使います」

「トマスさんの?」

「カイエ――いや、アルティア・ヴェイルと言うべきですか。彼女を潜入させます」

「カイエと言えば――世界有数の特殊メイク・アーティストでしょう? それこそ我々より顔が割れているのではないですか?」

著名な人物を潜入させる意図が分からない。

「彼女だから出来るのですよ」

「その人にしか出来ない――?」

「特殊メイクとは、顔を変える技術ではありません」

「……?」

「他人に、別の人物だと思わせる技術です」

そんなスパイ小説のようなことが、現実にあるのだろうか。

カートゥーンのように覆面を剥いだら、その下に素顔が潜んでいる――まさか。

「そんな単純なものではありませんよ」

サー・レジナルドは、わずかに口元を緩めた。

「髪型、皮膚、骨格の見え方、姿勢、歩き方、声、視線――人が他人を識別するとき、顔だけを見ているわけではない」

「……全部、変える?」

「全部、『そう見えるようにする』のです」

「アルティア嬢が作るのは、顔ではありません」

「では?」

「対象そのものです」

クララは、しばし言葉を失った。

それは変装というより――
他人の認識の中に、一人の人間を作り上げる行為ではないのか。

「私もアルティア嬢のその特殊能力については、詳しくは知りません。ですが、それに賭けたいと思っています」

――賭け。

危険なルーレット盤のノアールに、チップを積むというのか。

「ですから、ミス・カサンドラの――あの『預言』を解読してほしいのです。それが――」

「それが、賞杯への唯一の道だと?」

「そうです。ですから、私とミス・グエット・カムは、両家の『協定』のもとに、あなた方が預言を解く間、外側は我々が守ります」

「責任重大ですね。承りました――思考の森の座長として」


Are you Lady?

集団は明らかに混乱していた。

仲間の一人、また一人、虎挟み、竹槍、トリモチと、ありとあらゆるブービートラップによって負傷している。

「構わん、発砲を許可する! 効率など二の次だ、畜生めッ!」

それは、彼らが信奉してきた効率性そのものへの侮辱だった。

木の幹に身を預け、改造銃のグリップを固く握りしめる。

「卑怯者めッ! 下らん小細工になど惑わされんぞ」

草むらの一部に、影が見えた。

「そこか!」

躊躇わずに撃った。

だが、その方向に何も反応はない。

「何処だ、どこに居る!」

指揮者の顔面に小石が投げられる。

投げられた方向にも掃射する。

――その瞬間。

右耳が削がれた。

激痛に指揮者は思わずうずくまり、流れ出る鮮血を右手で押さえる。

指揮者の眼前に居たのは――。

「あなたが指揮者ですね」

感情のない声でそう問う人影。

「……貴様は――!?」

ナイフに付いた鮮血を軽く払い落とし、自分を見下ろす女性――グエット・カム。

女。

この女が。

――いや。

そもそも、いつからそこにいた?

「約束ですので、他は見逃します。ですが――あなたはここで終わりです」

「……お前は誰だ?」

「知らなくても良いこともあります」

その場に残ったのは、血の匂いだけだった。


Riemann surface

「『雷霆』3つが成り立つ『祭祀の矛』――そこから逆算すれば」

ソフィアがおもむろにノートパソコンを開き、データベースを検索する。

「ソフィア? 何かヒントでも思いついたのか」

シビルが問うと、

「『雷霆』を電力消費、または発電と仮定してみたのよ」

と、データの羅列を目で追うソフィア。

「もし『雷霆』が象徴ではなく、痕跡だとしたら?」

「痕跡?」

「巨大な設備は、何を隠しても電力だけは隠せない」

「匂いを追うみたいなものだ」

トマスはそう言って、ソフィアの言わんとすることを補足した。

「三つの雷霆が一つの矛を成立させるなら、独立した三系統の電源か、三基の発電設備、あるいは三つの異常な消費ピーク」

同じ「雷霆」という語でも、読む面を変えれば意味が変わる。
神話では雷。
工学では電力。
軍事では兵器。
地理では落雷密度。

「どれが正しいの?」

カイエが聞くと、ソフィアは断言した。

「違う。どれが正しいかを選ぶんじゃない」

「……?」

「重なる場所を探すのよ」

「しかしそんなことが――」

カイエの問いに、シビルがにやりと笑った。

「それをやってのけるのが、このソフィアなんだ」

ソフィアはなおもノートパソコンでアクセスを試みる。

「単一のデータベースじゃない。公開衛星、需給統計、機器流通――全部重ねる」

ソフィアは画面上に世界地図を表示した。

一枚目のレイヤー。
夜間光。

二枚目。
熱赤外。

三枚目。
電力機器の流通。

さらに経済活動の推定値。

半透明の地図が一枚、また一枚と重なっていく。

一つだけなら、世界中に無数の異常がある。

だが、条件を重ねるたび、赤い点は少しずつ消えていった。

「……候補が減ってるな」

シビルが身を乗り出すように画面に見入る。

「そう。答えを探してるんじゃない。矛盾しない場所だけを残してるの」


シビルがコーヒーを飲み終える頃合いを見計らったように、ソフィアが『これよ』と声を上げる。

「『World Energy Outlook』をあたってみたけれど、当然、こんな明瞭は統計には表れない。なら、と思って、それ以外の『統計に表れないポイント』を洗ってみたの」

「どういうことだ?」

「電力を大量に使えば、どこかに痕跡が出る。まず夜間光。通常の人口や経済活動では説明できない光を探した」

「宇宙から見た、明るい場所か」

「そう。それだけじゃない。大量の電力消費は最終的に熱になる。だから熱赤外の異常も重ねる」

「それから、電力を生み出すためには、電力を『生み出す機器』や『消費する機器』の流通量をみる。サプライサイド(供給側)とデマンドサイド(需要側)ね。供給側が独自の発電機関だったとしても、その電力にあやかる機器は必ずあるの。大容量変圧器、冷却設備、整流装置、非常用発電機、産業用UPS、特殊ケーブル――そういう『大量の電力を扱うための周辺機器』」

「なるほど、確かに作る側は隠せても、使う側は隠せないな」

「待て」

トマスが画面を覗き込んだ。

「お前が探しているのは施設じゃないな」

「そうよ」

「施設があるせいで生じる『歪み』か」

「正解」

「最後に、経済活動の指標(プロキシデータ)との相関を見る。セメントや鉄鋼などの生産量などの、エネルギーを確実に使う指標から「本来あるべき電力消費量」を統計モデルで算出する――つまり『実際に観測される活動量より、推定される電力需要だけが異常に大きい場所』を探したの」

「つまり――帳尻が合わない場所か」

「そう」

ソフィアが赤ペンで、世界地図にいくつかの印を入れる。

一つ。

二つ。

三つ。

点そのものは離れていた。

だが、地図全体を引いて眺めれば、それらは明らかに一つの地域へ収束している。

「このポイントを収束した場所――そこにエレノアは居る」

誰も、すぐには言葉を発しなかった。

赤い印のそのどれもが――

中東を示していた。

「ここで――あの『三叉戟の海』が」

カイエが指さした場所――。

紅海。
ペルシャ湾。
アラビア海。

三つの海域が、一本の巨大な矛を取り囲むように見えた。

トマスのスマートフォンの着信音が鳴った。

「ああ――そうか、なら、娘をそっちに寄越す」

スマートフォンを切ったトマスは、カイエに向かって、

「出番だ、アルティア」

「アルティア?」

シビルが怪訝な顔をする。

「――その名前で呼ばないでよ、パパ」

カイエ――いや、アルティア・ヴェイルは不機嫌そうな顔をトマスに向けた。


変身

「待ってくれ、カイエって本名じゃなかったのか」

シビルは突然のカイエの告白に思考が混乱していた。

「仕事上の名前よ――パパが本名で呼んでくれるの久し振りだから、思い出すのに時間かかっちゃったわ」

カイエことアルティアは、おもむろに髪を掴みとった。

「ウィッグか」

カラーコンタクトレンズを外し、メイクを少しずつ解いていく。

頬の陰影が消える。
眉の位置が変わる。
目元の印象が薄れ、鼻梁の見え方まで変わっていく。

「……待って」

ソフィアが思わず身を乗り出した。

「顔の形まで違って見えるんだけど」

「見えるだけよ。骨格を変えてるわけじゃない。人間が骨格をどう読むかを変えてるだけ」

「つまり……今まで見てた『カイエ』って」

「作品よ」

「……別人じゃないか」

シビルはそう言うと、アルティアは平然と、

「別人に見えるなら、成功ね」

と言ってのけた。

アルティアは鏡を見ながら、細かいメイク残りを丹念に拭い取った。

そこにいたのは、先ほどまでのカイエではなかった。

赤毛で、猫背気味で、そばかすの似合う――あえて言えば、ごく普通の女性だった。

「……こっちが本物?」

ソフィアが聞くと、

「分からないわ。忘れちゃった」

アルティアはとぼけて見せた。


トマスの先導で、全員はサー・レジナルドが控える別室に移動した。

「今のうちに」

サー・レジナルドはアルティアに声を掛ける。

「亡くなっているのね」

アルティアの他、全員の視界に入ったのは、既に冷たくなっている男の遺体だった。

「はい」

グエット・カムが返答する。

「この人物が?」

クララが問うと、サーレジナルドは、

「賊のリーダーのようです」

「この人になればいいのね」

全てを理解したアルティアは、遺体をつぶさに観察し始める。

顔ではない。
肩の落ち方。重心。指の癖。

靴底を見る。
右だけがわずかに減っている。

「右足に体重を乗せる癖があるのね」


「こんな感じかしら」

姿勢。
歩き方。
そして――声。

「男に――化ける? そんなことが――」

ソフィアがそう言いかけて、後の言葉を飲み込んだ。

そうだった。

このアルティアという女性は、変装――いや、変身と言うべきか――を可能にする女性なのだ。

「こんな感じかしら」

姿勢、歩き方。

そして――声。

「嘘でしょ!? なんで男の人の声が出せるの?」

「何となくやれるのよ。理由は私も説明できない」

「右耳がないわね」

アルティアの問いに、

「こちらです」

グエット・カムが銀盆に載せた『耳』を見せる。

「切ってしまいました」

「良いわ。形さえ分かれば」

アルティアはその『耳』も観察していた。


アルティア曰く、『特殊メイク』自体にはあまり時間はかからず、むしろその前提となる『観察』に時間がかかるらしい。

別室に籠もっていたアルティアが、再びクララらの前に現れたとき。
そこには、先ほどまでの素朴な女性の面影など微塵もない、一人の傭兵の男が立っていた。

「ジョゼット・マクリーン軍曹だ。よろしく頼む」

「――グッド」

サー・レジナルドは感嘆した。

「では、持ち場に戻る」

と、敬礼する『マクリーン軍曹』。

『マクリーン軍曹』がその場を離れようとしたとき。

「アルティア」

「何、パパ」

「――いや、何でもない」

自分の娘が、見たこともない兵士の姿で、娘の声のまま返事をする。
そのシュールさに、トマスは軽い目眩を覚えた。


「ポインターセターよりピットブル」

『ピットブル』

「任務失敗。速やかに撤収する。オーバー」

虎挟みや竹槍、トリモチで負傷した傭兵らはオブシディアン・マナーから撤収を開始する。

白のSUV数台が、霧の森域の彼方へ消えていく――。

逃げ道ではない。

彼らは今、帰る場所を選んだ。

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