君は「トミコ、トミコ!」を覚えているか
昭和の時代に、今では到底考えられない価値観の元で、それでも子供達の心を鷲づかみにした伝説の番組があったことを、あなたは覚えているでしょうか。
「お前なんか男じゃない、おとこおんなで十分だ! おとこおんなのトミコ!」
この売り言葉に、普段は大人しく臆病さがある男性がいきなり発憤して、絶体絶命の危機から痛快の逆転劇を行うシークエンス。
視聴者であった僕も、子供心に「トミー!凄い!頑張れ!」と、手に汗を握り、興奮したものでした。
その伝説の番組こそ、今回取り上げる『噂の刑事トミーとマツ』です。
物語設定もなかなか破天荒です。
まずは主人公の一人、岡野富夫。通称『トミー』。
警視庁富士見署捜査課に配属となった新人巡査で、彼の父は優秀な捜査課長として伝説の存在なのですが、肝心の彼はその勇敢さはどこへやら。
血を見るだけで卒倒、犬が怖い、高い所が怖い、火が怖い、拳銃を持つのが怖いという、気弱なダメ刑事です。
そんな彼の唯一の肉親である姉、幸子(通称サッチ)は少しでも偉大な父の勇敢さを受け継いで欲しくて、弟を日夜鍛え上げるのですが、その効果はあまり現れません。
もう一人の主人公、松山進。通称『マツ』。
ガニ股で背が低く、常時シークレットブーツを愛用する、通称「世界一踵の高い靴の男」。
性格はガサツで、せっかち、おっちょこちょいで声が大きく騒々しい。
悪を許さない熱血漢のあまり、犯人に対し暴力沙汰を起こすことが多々あり、毎度始末書ものとなっている問題児でもある。
しかし、彼もまた刑事であった父を亡くしており、身元引受人として、警視庁本庁の管理官・相模五郎のお目こぼしを受けてもいる。
そんな彼ら凸凹コンビが捜査方針で衝突しながら、とある犯罪現場に乗り込むが、逆に犯罪集団に取り囲まれ、絶体絶命の危機を迎えてしまう。
マツが『撃つんだよ!』と、トミーに拳銃を撃てと叫ぶも、拳銃が怖いトミーは撃つことが出来ない。
カッとなったマツは思わず、あのフレーズ――
「お前なんか男じゃない、おとこおんなで十分だ! おとこおんなのトミコ!」
と叫んでしまう。
その時、トミーの脳裏に、過去の『女の子みたいな大人しい子供』を揶揄われた記憶がフラッシュバックし、突然発憤!
やがて、普段の臆病さが嘘のような能力を発揮し、犯人たちを圧倒する。
トミーは「変身」していた
唖然とするマツ――。
しかし、子どもの僕には、この光景にそれほど違和感はありませんでした。
なぜなら、僕たちは知っていたからです。
普段は普通の人間が、ある合図を境に、まったく違う力を発揮する物語を。
それを、僕たちは「変身」と呼んでいました。
そうです。家から風呂敷を持ち出して、スーパーマンになりきったり、変身ポーズをマスターして、仮面ライダーになりきったり。
つまり『変身』とは、日常の自分を超えた『何者か』になりきる行為として、ごく自然に自分の中に取り入れていたのでした。
しかし、今になって考えてみると、トミーの「変身」は少し奇妙です。
仮面ライダーは仮面ライダーになる。
スーパーマンは、クラーク・ケントの日常からスーパーマンへと姿を変える。
戦隊ヒーローはスーツをまとい、名乗りを上げる。
けれど、トミーは何にもなりません。
「トミコ!」と呼ばれても、岡野富夫は岡野富夫のままなのです。
では、何が変わったのでしょう――。
血が怖い。犬が怖い。高所が怖い。拳銃が怖い。
普段のトミーには大量の「できない」がある。
ところがマツの一言を契機として、それまで彼自身を縛っていたリミッターが一気に外れる。
そう、トミーの変身とは、自己を縛り付けるリミッターの解除なのだと思うのです。
彼もまた偉大な父親から受け継いだ、正義感という最大の武器がある。
にも関わらず、普段の彼は、あまりにも多くの『できない』がある。
そこに、『トミコ!』という最後の解除キーが与えられることによって、彼はその『できない』を乗り越え、まさに覚醒するのでした。
だから僕ら子供達にも、身近な解放感を感じさせられたのだと思うのです。
『僕も、きっと、出来る!』と。
正義感は、恐怖を消すのか
いや、トミーは恐怖を失ってなどいない。
恐怖よりも「やらなければならない」が勝っただけなのではないか。
目の前の危機。
悪への純粋な怒り。
刑事としての使命感。
その感情が綯い交ぜになった先にある、『覚悟/責任』こそが原動力なのではないのか。
そう思うのです。
もちろん、トミーは恐怖そのものを打ち消してしまった訳ではないでしょう。
怖い。
逃げたい。
その感情は、決して消えてはいない。
ただ、それ以上に――
「ここで自分がやらなければならない」という感情が膨れ上がる。
その瞬間、トミーは眼前の恐怖を『乗り越える』。
つまり、
恐怖 < 正義感
という単純な数式ではないんです。
「怖い自分」を抱えたまま、それでも行動を選択する。
しかし、冷静さを取り戻すと、途端に普段の気弱で臆病なトミーに戻ってしまう。
事件が終われば、また怖がる。
また逃げ腰になる。
またマツに呆れられる。
その強烈なギャップに、子供心にも爽快感を覚え、そしてほんの少しだけ、自分にも何かが出来るような自信をもらっていた――。
毎回怖がって、毎回それでも乗り越える。
勇気とは、「怖くなくなること」ではないのかもしれない。
怖い自分は、次の日にもちゃんといる。
それでも必要なときには、その自分をもう一度乗り越える。
私は、そう思えるのです。
「トミコ!」が解除キーである理由
「おとこおんな」
「トミーじゃねぇ!お前なんかトミコで十分だ!」
今なら、「そんな表現はけしからん」と糾弾されるか、「昔だから仕方ない」と過去のものとして片づけられる表現でしょう。
しかし、私はあえて安直なジェンダー論へ逃げずに、
「変身と勇気の物語として今なお魅力がある。だからこそ、その鍵として使われた言葉についても逃げずに考えたい」
と思うのです。
――私も、いじめられっ子でした。
スポーツの類いは、からきし駄目。
喧嘩も怖くて出来ない。
だからいつも情けない気分で、自分を見ていました。
子供というものは、直ぐ流行の文句に感化されるもので、私の周囲でも、「トミーとマツごっこ」が流行ったものです。
私は、決まってトミーの役でした。
「悔しくないのか!お前なんか○○(実名)子で十分だ!○○子!○○子!」
そう、周囲に囃し立てられる。
ですが、これも遊びの一環で、実は仲の良い近所の友達が、マツ役でその台詞を言う役なのです。
私はその決め台詞で、文字通りスーパーマン然と振る舞うことが出来た。
そう、私はその瞬間、「トミコ」になったのです。
当時の社会には、
男なら強くなければならない。
男なら怖がってはいけない。
男なら喧嘩くらいできなければならない。
という不文律めいたものがありました。
だから、普段はか弱い僕は、その規格から外れた存在として、いじめの対象でありました。
ですが、仲の良い友達の間での『トミーとマツごっこ』では、
「ここから強くなっていい」
という許可証になる。
「トミコ!」は、
傷を突く言葉であると同時に、変身を許可する言葉でもあった。
物語でのトミーも、まさにそうだったのではないでしょうか。
普段の臆病なトミーに対し、マツから「変身しても良い」という、『許可証』を与えられる。
そのシークエンスこそが、解除キー『トミコ!』の本質だと思うのです。
「トミコ」は、弱さを否定して強者になる名前ではない。
弱さを突きつけられた瞬間、その弱さごと抱えて立ち上がるための名前だった。
今にして、そう思えるのです。
「男らしさ」を証明したかったのか?
では、私は「トミコ」と呼ばれて、「男らしい自分」になりたかったのだろうか。
多分、半分正解で、半分不正解だと思います。
強い男になりたかったのではない。
弱い自分にも、強く振る舞える瞬間があることを信じたかった。
普段の自分を消して、「強い男」に成り代わったわけではないし、運動が苦手だった自分も、喧嘩が怖かった自分も、そのまま存在している。
それでも友達があの台詞を言った瞬間、
「今だけは、その自分を超えていい」
という遊びの世界に入れた。
それはまさに、私が手に入れることが出来た、
誰かに強さを認めてもらう許可証ではなく、自分自身が日常の制約から離れるための許可証
だったと思うのです。
トミーも同じです。
トミーも日頃から、実の姉や周囲から発破を掛けられていました。
「偉大な父親の息子」「刑事」「男」――そこには、トミーを外側から規定するいくつもの物差しがあったように思います。
けれど、『トミコ!』の瞬間だけは違う。
その奇妙な解除キーによって、むしろ彼はそれらの規格から解き放たれる。
「男らしいトミー」になるのではない。
トミーが、トミーらしくなる。
今の僕には、そんなふうにも見えるのです。
そして私も、「○○子!」と呼ばれた瞬間に、「男らしい子ども」になる必要があったのではない。
ただ、その遊びの間だけ、
運動が苦手で、喧嘩も怖い自分にも、ヒーローを演じる権利があった。
それで十分だったのです。
無論、言葉の表層には時代の偏見があったでしょう。
しかし、その言葉を媒介として子どもが経験した「自己解放」まで、偏見そのものだったとは言い切れないと思うのです。
まだ自分ではないと思っていた自分を、試してみる
「変身!」と決めポーズを取る。
その瞬間、自分でない何かになれる。
「まだ自分ではないと思っていた自分」にもなれる自由がある。
子どもの「ごっこ遊び」は、本当に自分を捨てて別人になることではなかった。
風呂敷を巻いてスーパーマンになっても、自分は自分です。
仮面ライダーの変身ポーズを取っても、本当に本郷猛になるわけではない。
それでも、その瞬間だけ、
「普段の自分では選べない自分」を選ぶことができた。
トミーもそうです。
臆病なトミーと、超人的に戦うトミーのどちらかが「本物」なのではない。
どちらもトミーだった。
子どもの頃の「ごっこ遊び」も同じです。
弱気な自分。
運動が苦手な自分。
喧嘩が怖い自分。
それらを否定する必要はないと思います。
でも同時に、
勇敢な自分。
格好いい自分。
誰かを助ける自分。
無敵の自分。
そんな「まだ知らない自分」も、遊びの中なら試すことができる。
つまり、ごっこ遊びとは、
「私はこういう人間だ」という日常の自己定義を、一時的に解除する遊び
だったのかもしれません。
「ごっこ遊び」とは、自分ではない誰かになる遊びだった。
いや、今にして思えば、少し違うのかもしれません。
まだ自分ではないと思っていた自分を、試してみる遊びだった。
弱い自分にも、強い自分がいる。
臆病な自分にも、立ち上がれる瞬間がある。
『トミコ! トミコ! トミコ!』
あの言葉を合図に、僕はほんの少しだけ、いつもの自分から自由になれた。
そんな時間を、今の子どもたちにも何らかの形で味わってほしい。
「僕は、僕が思っている僕だけじゃない」――。
そう感じられる時間を。

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