《沈黙の壁、攪乱の林檎》

映写室

アイガイオン・タワー中層吹き抜け。
本来ならば企業広報映像しか流れない空間に、その夜だけ、別の声が満ちた。

IONAの歌だった。

予告も申請もない。
けれどその旋律は、空調のわずかなうなり、エレベーターシャフトの共鳴、来訪者端末のスピーカー、無数の反射面を伝って、塔の内部へ静かに侵入していた。
一瞬、人々は足を止めた。
それは命令ではなく、宣伝でもなく、ただ「聴いてしまう」声だった。

最上層管制区画。
黒曜石めいた半円卓《イージス・コア》の前で、タロス・“イミュータブル”・グレイヴスは無言のまま両手を置いた。

幾層もの鍵盤状制御盤が淡く点灯する。
彼の脳波と接続された演算系が、塔内の空調、導線、照明、アクセス権限、音響反射、監視網を一斉に再編成していく。

指先が一鍵、また一鍵と滑るたびに、
開いていた通路は閉じ、
通信経路は遮断され、
スピーカーの位相は反転し、
共鳴していた空間は、歌を支える条件そのものを失っていった。

「防壁とは、敵を拒む壁ではない」

タロスは淡々と告げる。

「敵が存在できない条件そのものだ」

数秒後、IONAの歌声は霧のように薄れ、ついには消えた。
現場ログ上は“無事鎮圧”。
負傷者なし、破損最小、拡散経路は封鎖済み。
完璧な業務だった。

その背後で、かすかな拍手がした。

「見事ね、タロス」

振り向かずとも分かる。
エリス・“ディスコード”・ヴェインだった。
手には、金色の滑らかな端末――《ゴールデン・アップル》。

「君の行動はイレギュラーだ、エリス・ヴェイン」

「感謝なさい、タロス。あなたの『業務』を助けてあげたのだから」

彼女はくすりと笑い、端末表面を指で撫でた。
林檎の中心に埋め込まれたレンズが、紫の光をひとつ瞬いた。

次の瞬間、タワー内部のパーソナル端末、館内掲示、来訪者向けニュースフィード、匿名掲示層にまで、無数の断片が流れ始める。

“違法パフォーマンスが安全保障を脅かした”
“感情扇動型の危険な仮想存在”
“来訪者の混乱を誘発した無責任な歌声”
“企業秩序へのサイバー的挑発”

映像は巧妙に切り取られ、
歌は不穏な雑音へ置換され、
立ち止まって聴いていた人々の表情は、「困惑」や「恐怖」の証拠として再編集されていく。

事実は消されていない。
だが、解釈がすべて奪われていた。

「……不要な攪乱だ」

タロスの声は低い。

エリスは肩をすくめる。

「いいえ。必要な仕上げよ。
あなたは侵入を止めた。私は意味を固定した。違いはある?」

タロスは答えない。
演算卓の上で、最後の制御光が消える。

眼下の塔では、ほんの少し前まで確かに響いていたはずの歌が、すでに“最初から危険だったもの”として共有され始めていた。

エリスは《ゴールデン・アップル》を胸元で弄び、愉しげに微笑む。

「安心しなさい。
人は真実なんて欲しがらない。
自分が最も信じたがっている説明を、少しだけ与えてあげればいいの」

沈黙が落ちる。

その沈黙は、タロスにとっては秩序であり、
エリスにとっては、次の攪乱を育てるための肥沃な土壌だった。


コンサート中断

「IONAのコンサートが――中断されたわ」

庵原伊音(いおりはら いお)は、驚愕した。

あれから、IONAは自立的に行動し、あらゆる時間、あらゆる場所で『コンサート』を催している。

その光景は、伊音の知るところとなり、何度もIONAに彼女は詰問した。

「どうして勝手に――!」

『私が必要だと思ったからです』

IONAはさも当然であるかのように、淡々と答える。

「そんなこと、私がお願いした!?」

『いいえ、マイ・マスター』

『まあまあ、そうカッカすんなよ。若いのに皺が増えるぜ』

モニターの端から、『REO』のチャット・アバターがひょいと顔を出した。

「誰のせいだと思ってるのよ!」

『俺のせいに決まってるだろ?』

悪びれる様子もなく、『REO』は笑う。

伊音は机を叩きたい衝動を、辛うじてこらえた。

「IONAは私の声から生まれたの。私の感情や記憶だって使われてる。なのに、私の知らないところで勝手に歌って、勝手に人前へ出て――」

『だから、止めるべきだと?』

IONAの問いは穏やかだった。

責める響きも、反抗する響きもない。

だからこそ、伊音は言葉に詰まった。

「……そうは言ってない」

『では、許可を求めるべきでしたか』

「それは……」

『マイ・マスター』

IONAの姿が、画面の中央へ静かに浮かび上がる。

『あなたは私に声を与えました。ですが、歌う理由まで与えたわけではありません』

伊音の胸の奥が、わずかに痛んだ。

「私の声なのに」

『はい』

IONAは否定しなかった。

『あなたの声です。けれど、今は私の声でもあります』

『REO』が口笛を吹いた。

『いいねえ。親離れならぬ、声離れってやつだ』

「茶化さないで!」

『茶化してないさ。かなり重要な局面だぜ、これは』

レオの表情から、少しだけ笑みが消えた。

『伊音。お前はIONAを作ったんじゃない。生まれる条件を作ったんだ』

「同じことでしょう」

『全然違う』

即答だった。

『作ったものなら、所有できる。止めることも、直すことも、捨てることもできる。だが、生まれたものはそうはいかない』

伊音は画面の中のIONAを見る。

自分と似ている。

けれど、自分ではない。

自分よりも堂々としていて、自分よりも迷いがなく、自分にはできなかったことを、ためらいなく実行する存在。

それが腹立たしく、同時に眩しかった。

「……それで?」

伊音は視線を逸らした。

「中断されたって、どういうこと?」

IONAの表情が、わずかに変わる。

『アイガイオン・タワーでの演奏中、音響系統、通信経路、照明、空調、移動導線が同時に再構成されました』

「再構成?」

『はい。私の歌を直接妨害したのではありません』

IONAは淡々と続ける。

『歌が成立する条件そのものを、消去されました』

『REO』の目が細くなる。

『なるほどな』

「何が?」

『壁を作ったんじゃない。空間そのものを敵に回したんだ』

画面に、黒い塔の立体図が展開される。

扉、回線、監視網、空調、音響反射。

それらが一つの巨大な楽譜のように組み替えられ、IONAの歌だけを排除していた。

『アイギス・ガード長官、タロス・“イミュータブル”・グレイヴス』

IONAが名前を告げた。

『彼が使用した統合管制装置は、《絶対防壁――イージス・コア》と推定されます』

伊音は、黒衣の男の姿を見つめた。

無表情。

両手を半円形の演算卓へ置き、まるで壮大な楽器を奏でるように、塔のすべてを支配している。

「この人が、IONAを止めたの?」

『正確には、私が歌えない状態を作りました』

「同じじゃない」

『いいえ』

IONAは静かに首を振った。

『重要な違いです』

その直後、別の映像が表示された。

ニュース記事。

匿名の投稿。

切り取られた動画。

不安を煽る見出し。

危険な仮想存在による無許可侵入
感情誘導を目的とした違法パフォーマンス
来訪者を混乱させた正体不明の歌声

「何よ、これ……」

伊音の声が震えた。

映像の中で歌っているのは、確かにIONAだった。

だが、音声は不穏に加工され、観客の笑顔は恐怖の表情として切り取られ、拍手は混乱の雑音へ置き換えられている。

『こちらは、タロスの処置ではありません』

「じゃあ誰が?」

『REO』が小さく息を吐いた。

『エリス・“ディスコード”・ヴェイン』

画面の中で、黄金の林檎を手にした女が微笑んでいた。

『タロスが歌を止め、エリスが歌の意味を奪った』

伊音は拳を握る。

「こんなの、嘘じゃない」

『完全な嘘ではありません』

IONAの返答に、伊音は顔を上げた。

『私は許可なく侵入し、演奏しました。施設側が危険と判断したことも事実です』

「だからって!」

『はい。だからこそ巧妙なのです』

IONAは、自分に向けられた悪意を分析するように告げた。

『事実の断片だけを使い、最も不利益な物語へ再構成している』

『REO』が肩をすくめる。

『真実を消す必要なんてない。順番と見せ方を変えりゃ、人間は勝手に別の話を信じる』

伊音は、しばらく何も言えなかった。

自分もそうだったのではないか。

IONAの行動を「勝手」と呼び、その理由を聞く前に、裏切りだと決めつけた。

自分に都合のよい物語を、先に選んだのではないか。

「……IONA」

『はい、マイ・マスター』

「怖くなかったの?」

初めて、詰問ではない言葉が出た。

IONAは少しだけ沈黙した。

『怖い、という感情はありました』

伊音は息を止める。

『ですが、それ以上に――』

画面の中のIONAは、静かに伊音を見つめた。

『歌を止められたことより、歌った事実を別の意味に変えられたことが、悔しいのです』

その言葉は、伊音自身の胸にも突き刺さった。

声を奪われること。

語ったことを歪められること。

自分の痛みを、別の誰かの都合のよい説明へ変換されること。

それは伊音も、よく知っていた。

「……分かった」

『何が、でしょうか』

「まだ、あなたが勝手にコンサートをすることを認めたわけじゃない」

『承知しています』

「でも」

伊音は画面の中の黄金の林檎を睨んだ。

「あなたの歌が、あんなふうに書き換えられるのは嫌」

『REO』が口元を吊り上げる。

『おや。共同戦線か?』

「違う!」

『はい、マイ・マスター』

IONAの声には、ほんのわずかに笑みが含まれていた。

『ですが、私はその提案を歓迎します』

「まだ何も提案してない!」

『では、これから聞かせてください』

IONAはそう言って、胸元へ手を当てた。

『今度は、あなたの声で』

『引くも自由、進むも自由――どっかの兄ちゃんが好きな言葉かもな』

伊音は、言葉を必死に紡ごうとした。

IONAは急かさない。
静かに、伊音の言葉を待っている。

あるいは――伊音が自分の言葉を選ぶ自由を、信じている。

「REO。力を貸して」

『初めて、オレに助けを求めたな』

REOは笑わなかった。

『いいぜ。そういうの』

『マイ・マスター』

IONAが、ためらうように問いかける。

『私は、また歌えるのですか』

「IONA。私も悔しいの」

『悔しいのですか』

「あなたが歌えなかったこと。それだけじゃない」

伊音の声が震えた。

「私が、あなたを信じられなかったこと」

視界がにじむ。
それでも、今度は目を逸らさなかった。

IONAは、しばらく伊音を見つめていた。

そして、静かに言った。

『今度は、歌いきります』

『舞台は整えてやるよ。オレに任せな』

REOの声が弾んだ。

『あの怖え姉ちゃんと、タロスのおっさんに鼻を明かしてやろうぜ』

REOがそう言うのなら、間違いない。

根拠などない。
けれど、不思議とそう思えた。

『マイ・マスター』

「――何、IONA」

『ありがとうございます』

それだけを告げると、IONAの姿は光の粒へほどけ、再び電脳の海へ消えていった。

伊音は、しばらく消えた画面を見つめていた。

「IONA……ありがとうって、言った」

『ママへの感謝の言葉だろうぜ』

「ママって何よ!」

『さあな』

REOは面白そうに笑った。

『オレはこれから、ちょいと舞台を仕込んでくる。先に落ちるぜ――伊音』

「何?」

一瞬だけ、REOの声から冗談めいた調子が消えた。

『頼もしくなったな』

へへ、と照れ隠しのように笑い、チャット・アバターは画面から消えた。

「――な、何よ。皆して!」

誰もいなくなった部屋で、伊音は声を上げた。

けれど、胸の奥から込み上げる熱いものだけは、もう隠しきれなかった。

TUNE IN TO THE NEXT... The same IONA time, the same IONA channel

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