憧憬と思慕は両立するのか――黒羊の葡萄亭(ブラックシープ・イン)にて

映写室

「甘酸っぱいわね――私もそんな時期がありました、と言いたいわね」

「そのスプモーニのように、ほろ苦いのかしら」

夜霧と涼やかな夜風が心地よくも感じる、ここ黒羊の葡萄亭(ブラックシープ・イン)のカウンター席に、女性二人――ソフィア・ウェーバーと、クララ・ハルモニアは、恋の話に花を咲かせているようだが――。

「カレッジに感じの良い先輩がいたわよ。少しお付き合いもしたかしら」

ソフィアが思い出めいたことを言うと、クララは間髪入れずに、

「彼、二股掛けてたわよね」

「そうよ、失礼しちゃうわ!よりにもよって、同時並行で私と同じゼミの先輩と付き合ってたのよ」

「年下よりも同い年の方が良かったのかしらね」

ぷんすか、と思い出すんじゃなかったという風なソフィアを宥めながら、クララはバーボンを口に運ぶ。

「そうかもしれないけどさぁ……もうちょっとさぁ、タイミングってものがあるでしょう」

「恋は盲目なのよ」

「見えなさすぎよ、こんな魅力的な女性がいたのに」

クララはそろそろ話題を変えなきゃ、とソフィアを横目で見やる。

――まだ、平常だわ。

「ねえ、ソフィア。憧れと恋は、同じ場所に置けるものかしら」

それに対してソフィアが、

「置けるわよ。ただし、相手を台座から降ろす覚悟があるならね」

「下ろす台座が見当たらない場合は?」

ふう、と一つ溜息をつきながらソフィアは、

「あずきとそら様のことは、少し特殊ね。私の感覚では、どちらかというとアイドル(偶像)を追いかけるファンの心理に近いと思うわよ――ちょっと距離を見失いつつある、ね」

ヴァーチャル・ディーヴァに仄かな思慕を抱く、一ファン。

果たして、それだけで片付けていいものだろうか。

クララは、あずきとそらとの会話を脳内で反芻していた。

綺麗にまとめると、恋を知らない青年の、恋物語。

でも、それだけではないものが、彼にはある。

彼は、IONAを欲しているのではない。
彼は、IONAに見つけられた自分自身を、まだ手放せずにいる。

「でも、救われた経験と、相手を愛することは、似ているけれど違うわ」

クララの脳内を透かすように、ソフィアは続ける。

「救われたのかしら、彼は」

「一時的には。でも、永続的ではないわ」

「気休めに過ぎないと?」

グラスの氷を揺らしながら、クララはそう尋ねた。

「気休めとは断言しないけれど。でも――少なくとも、繋がっていない」

「あずきとそら様の一方的な思いという、危うさがある訳ね」

少し酔いが回って、饒舌になってきたソフィアのペース配分を念のために測りながら、クララはソフィアに続けた。

「カレッジの思い出もそう。私は、彼にアプローチはしたけれど、彼の内面までは見ていなかった」

「彼の本心ね」

「そうね――本心というか、単純にすれ違っていたのね。思いの押しつけかしら」

「反応を見る余裕がなかったのかしら」

「それもある。でも、少し、相手の声を聞く努力をしていなかったわね」

グラスに残ったお酒を飲み干して、ソフィアはバーテンダーにスプモーニをオーダーした。

ソフィアのペース配分をバーテンダーも分かっているらしく、はい、と応じている。

『あなたは、聴くことができた』

聴く、と、聞く。
同じようで、違う行動だ。

あなたは、私を聴いたのですか。
それとも、私を通して、自分の痛みだけを聴いたのですか。

彼女――IONAの真意はこうなのではないだろうか。

ならば、これは彼にとっての氷の刃にも等しいのかもしれない。

「そのIONA――ヴァーチャル・ディーヴァに、あずきとそら様は何を見たのか、何を見ようとしたのか。彼女の表面か、それとも」

「それとも?」

「鏡面。あずきとそら様自身よ」

ソフィアは続ける。

「私はカレッジの彼の外見を見て、追いかけた。あずきとそら様は、IONAに自身の理想像を見て、追い求める。でも、恋愛感情のステップはどちらも違うと思う」

3杯目のスプモーニを口にして、そうソフィアは断言する。

「相手そのものをどちらも見ていない、ということなのかしら」

「そうかもしれないわね。でも、相手の本質なんて、誰だって最初から見えるものじゃない。何度もすれ違って、勝手に期待して、失敗して、それでも少しずつ分かり合う――恋は手軽なゲームじゃないのよ」

「さすが、恋多き女性は違うわね」

「揶揄わないでよ。クララだって、カレッジではモテモテだったじゃない」

「はいはい、そうです、そんな時期も私にはありました」

二人はそう言うと堪えきれずに笑う。

「でも、あずきとそら様はナルキッソスのままでは居られない――正確には、居続けることはない」

「そうかもしれないわね」

「私たちのボスでしょう、信じましょう、クララ」

「私は彼を信じているわよ。彼は、悩むたびに強くなる。立ち止まるたびに、次の選択肢を自ら何個も何個も生み出していく強さと弱さがある」

「自由とは、編集権である――か。恋愛も自由という編集権なのかしら」

「悩むことも自由の一つなのよ」

ソフィアの問いに、クララは答える。

彼は、これからもIONAに出逢い、何度もすれ違って、勝手に期待して、失敗していくだろう。

そのたびに、彼は悩み続けるだろう。

でも、その営み自体から彼は、逃げないと思う。

クララは、そう思うと、グラスを空にした。

「グスッ――それにひき換え私は、私はぁ」

しまった、こっちは失敗したのね――。

やれやれ、と思いながらも、いつもの通り、ソフィアの泣き上戸に付き合うクララなのだった。

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