林檎と象牙
「賭けをしないかね、ワトスン君」
濃い赤髪の彼女――シビル・アドラーは、安楽椅子を軋ませながら、そう言った。
日頃から突飛なことを言う彼女だが、今夜は一段と暇を持て余していると見える。
この我輩に賭けなどと、不毛にも程があるというものではないか。
象牙の豆が煎られる薫りが部屋を漂い始めた、月の見えない霧の夜、我輩ミスター・ワトスンは、損なことを思いながら耳の後ろを前脚で洗っていた。
「魔女が私にも現れるか、否かだ――実に単純な賭けだよ」
彼女は魔女と言ったか?
この山脈のように堆く積まれた書籍に、そのようなお伽話はなかったはずだが――。
「わが依頼主が懊悩したというその魔女――エリス・ヴェインは、我々思考の森の面々を愚弄したという」
――穏やかではない話だな。
我輩の髭がひくつく間もなく、彼女はこうも言ってのけた。
『美しい手口だ』と。
犯行の手口に、美しさも何もないと我輩は思うのだが、彼女の探偵としての美意識はそうは言わないようだ。
『かの名探偵にして『あの女性』と言わしめた――アイリーン・アドラーになると良いがね、その魔女が』
我輩は彼女に聞こえないと思いながらも、そう言う。
「さて、そろそろ――来るんじゃないか」
まるで他人事のように彼女は言って、サイフォンから抽出された漆黒の液体をカップに注ぐ。
「準備万端だ。さ、来たまえよ、エリス・ヴェイン。それともポップコーンを買ってくる時間までくれるのかね」
――映画かオペラでも楽しむ風だな。
そう呆れながらも、我輩はひとつ大きく伸びをして、彼女の側へ少しだけ身を寄せた。

「残念。今夜はオペラよ、かわいい探偵さん」
その声が落ちた瞬間、我輩の体毛を、ぞわりとした感覚が走った。
「おやおや。今回は仮想実体かね」
「私をカートゥーンか何かと思っていたのかしら?」
221Bネブラエの入り口に、仮想実体としてなお堂々たる気配を纏い、妖艶な魔女は立っていた。
「これは失敬――どうぞ奥へ、エリス・ヴェイン」
ひりつく空気
「何か飲まれるかね?」
「仮想実体なので遠慮しておくわ」
応接ソファに優雅に腰掛ける黄金の魔女は、そう言って我輩に目線を送る。
嫌な目だ。我輩の内心を見透かしておるようだな。
「そうかね、それは残念だったね――伺おう、御用向きは」
「陣中見舞いと言ったところかしら」
シビルは返事をしなかった。
ただ、ブラックアイボリーを一口含む。
「――なるほど」
その声だけが、少し低くなった。
「では君は、ここが既に戦場だと言うのだね」
「貴女がヘッド・クォーターではなかったのかしら?」
黄金の林檎を弄びながら、エリスは怪しげな笑みを浮かべる。
「買いかぶっているな。私はカサンドラのような派手な指揮官ではないよ」
「本当かしらね」
「なるほど。私を調べてきたらしい」
「調べるまでもないわ。人は、自分が中心ではないと思っている時ほど、よく中心にいるものよ」
「違いない」
笑いながら、シビルはブラック・アイボリーを口に含む。
「趣味が良いのね」
「お互い様だよ」
――笑っている状況が素直に理解できないのは、我輩だけか。
ひくつく髭が疎ましく感じる。
「――雑談はここまでにしましょう。本題に」
「伺おう」
エリスの次の言葉まで、妙に時間の経過を感じた。
「どこまでご存じ?」
「君が行ったことと、君らが行おうとしていること、それだけだ」
「十分よ、ミス・シビル」
カップをソーサーに置く、乾いた音。
沈黙。
耐えがたい緊迫感に、流石の我輩もばつが悪くなる。
「本格的に侵攻する私たちの全容を、もっとお調べになっても良くてよ」
「それは依頼かね」
「警告よ」
「警告、か」
シビルはその言葉を、舌の上で転がすように繰り返した。
「では、ありがたく受け取っておこう」
「素直なのね」
「警告を無視する探偵は、長続きしないのでね」
エリスは視線をあらぬ方に向けた。
「――彼、面白いわね。興味をそそられる」
――彼。
あのうだつの上がらぬ、猫耳の青年のことか。
「まあ、ユニークだとは思うがね」
「もっとお近づきになっても良いかしら」
「好きにしたまえ」
さして喜びを上げるでもなく、エリスは不敵な笑みを浮かべる。
「玩具としては上出来よ」
「君のお眼鏡に適ったのなら、彼も喜ぶだろうさ」
「食えないわね、貴女」
「期待に添えなかったようで」
不意に席を立つエリス。
「――時間ね。仮想実体になるにも制限があるのよ」
「ガラスの靴をお忘れ無く」
「毒林檎の間違いでなくって?」
二人は確かに笑った。
だが、少なくともそれは表面的なものだ。
――まったく。
今夜という夜は、我輩の心臓に悪い。
――待て。そういえば我輩は、賭け金を聞いておらぬぞ。
シビルが消えていくエリスを見送る様を見ながら、もう一方の賭け主の言葉を戦々恐々としているのだった。

この文章のそばに、灯りを。
名前も言葉もいりません。もう一度押すと取り消せます。



コメント