「霧の森域」北西部。
そこには、かつてこの地を治めた領主の居城跡が残されている。
現在、カサンドラ・クアンが住まう黒曜石の館――オブシディアン・マナーは、その古城の意匠を可能な限り留めながら、現代的な改装を施したものだった。
館の管理下には、《霧の丘ワイナリー》と呼ばれる工房がある。
この土地で採れるシラーズ種の葡萄を用い、醸造から熟成、瓶詰めに至るまでを一貫して行う、小規模ながら質の高い葡萄酒工房である。
たった今、カサンドラは、その日の生産日報に目を通し終えたところだった。
最後の一枚に署名を記し、ペンを置く。
その絶妙なタイミングを見計らったかのように、グエット・カムが蜂蜜紅茶と、香ばしく焼き上がったばかりのスコーンを小皿に添えて差し出した。
「まるで私の仕事の終わる時刻を、最初から知っていたようね、カム」
「お褒めにあずかり光栄です」
カムは控えめに頭を下げ、そのまま側へ退いた。
紅茶から立ちのぼる甘い香りを確かめながら、カサンドラは尋ねる。
「この後の予定は」
「一件、アポイントがございます」
「どなたかしら。わが主にしては、少々早い来訪のようだけれど」
猫耳を持つ、どこか頼りなげな青年の姿を思い浮かべ、カサンドラはわずかに苦笑した。
「いいえ。ジン家のご令嬢でございます」
「エレノア」
カサンドラは、ティーカップの縁へ指を添えた。
「珍しいお客様だこと」
冷静な言葉とは裏腹に、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
グエット・カムは、それをあえて見なかったことにした。
「一時間後、会議室へお通しいたします」
「そうね」
カサンドラは窓の外へ目を向けた。
午後の日差しが、黒曜石の壁を淡い琥珀色に染め始めている。
「あの時刻なら、ちょうどあの部屋が会議に相応しいわ」
会議は踊らない
グエット・カムの報告どおり、きっかり一時間後。
黒曜石の館の正面玄関へ続く車寄せに、一台の黒いアストンマーティン・ラピードが滑り込んだ。
ほとんど時刻表どおりと言ってよい正確さで停車すると、運転席からサー・レジナルドが降り立つ。
元軍人らしい無駄のない足取りで後部座席へ回り、扉を開けた。
そのエスコートを受け、エレノア・ジンが車内から姿を現す。
玄関前には、グエット・カムを先頭に、館に仕える女中たちが整然と並んでいた。
派手な出迎えではない。
けれど、立ち位置から礼の角度に至るまで、黒曜石の館らしい規律が行き届いている。
車両係の女中がサー・レジナルドから鍵を受け取り、アストンマーティンを館側面の駐車区画へ移動させた。
グエット・カムは一歩進み、静かに一礼する。
「お待ちしておりました、エレノア様。ご案内申し上げます」

「ありがとう」
エレノアは、いつもの柔らかな声で応じた。
その唇には、穏やかな笑みもある。
しかし――。
――表情が硬い。
グエット・カムは、エレノアの顔に浮かぶわずかな緊張を見逃さなかった。
目元。
呼吸。
返答までの、ほんの一拍。
だが、それを悟らせるほど彼女は不調法ではない。
「こちらへどうぞ」
カムもまた、何も気づかなかったかのような微笑を返した。
「道中、霧は深くございませんでしたか」
「ええ。けれど、先が見えないほどではなかったわ」
「左様でございましたか」
それだけの、他愛のない会話だった。
だが、この館においては、天候についての一言さえ外交の一手となり得る。
霧は深かったのか。
先は見えているのか。
引き返すほどではなかったのか。
グエット・カムは、それ以上を尋ねなかった。
エレノアもまた、それ以上を語らなかった。
その数歩後ろを歩くサー・レジナルドにも、表情の変化はない。
ただ、仕立てのよい上着の懐に、わずかな膨らみが見えた。
懐中時計か。
眼鏡入れか。
あるいは――。
カムは視線を留めることなく、その形と位置だけを記憶した。
問いただす必要はない。
この館へ武器を持ち込む者がいることも、ジン家の令嬢を守る男が無防備であるはずもないことも、いずれも不自然ではなかった。
重要なのは、何を持っているかではない。
それを、どのような状況で使うつもりなのか。
「主カサンドラは、会議室に」
カムが告げると、エレノアは小さく頷いた。
「待たせてしまったかしら」
「いいえ。予定どおりでございます」
予定どおり。
その言葉を聞いたレジナルドの視線が、ほんの一瞬だけカムへ向けられた。
「私は、どこまで同行すればよろしいかな」
穏やかだが、よく通る声だった。
「控えの間まで、ご案内いたします」
カムは即答する。
「会議室へは、エレノア様お一人でお入りいただくよう、主より申しつかっております」
レジナルドは眉ひとつ動かさなかった。
「承知した」
返答に異議はない。
だが、了承と安心が同義ではないことを、カムはよく知っていた。
エレノアが振り返る。
「レジナルド。大丈夫よ」
「承知しております、お嬢様」
レジナルドは静かに一礼した。
その言葉もまた、額面どおりに受け取るべきものではなかった。
大丈夫だと信じているのか。
大丈夫であるように備えているのか。
おそらくは、その両方だった。
一行は、黒曜石の床を踏み、館の奥へと進んだ。
午後の光が、高窓から細く差し込んでいる。
その先にある会議室では、カサンドラ・クアンがすでに彼らの到着を知っていた。

「ジン家ご令嬢、エレノア・ジン様――」
扉脇に控えていた女中が、よく通る声で来訪者の名を告げた。
それとほぼ同時に、重厚な両開きの扉が、わずかな軋みを立てて開かれる。
午後の光を背に、エレノアが姿を現した。
会議卓の奥に座していたカサンドラは、手元の書類から目を上げる。
「よくいらっしゃいました、エレノア」
エレノアは室内へ一歩進み、静かに一礼した。
「急なお願いにもかかわらず、お時間をいただき、感謝いたします」
「よろしくてよ。他ならぬ貴女ですもの」
カサンドラは薄く微笑み、扉の傍らに控える従者へ視線を向けた。
「グエット・カム。人払いを」
「かしこまりました」
カムが一礼する。
その合図を受け、女中たちは音もなく退室していった。最後にカム自身が室外へ下がり、重厚な扉を静かに閉ざす。
二人だけになった。
扉の閉じる低い音が消えたあとも、しばし静寂だけが室内に残った。
壁面には、かつてこの地を治めた領主カラ・ユースフの肖像画が掛けられている。
黒衣の領主は、会議卓を挟んで向かい合う二人を、遠い時代から見下ろしていた。

「エレノア」
先に沈黙を破ったのは、カサンドラだった。
「今日は、どのようなご用かしら。貴女が正式にアポイントを取ること自体、ずいぶん久しぶりですもの」
エレノアは勧められた椅子には、まだ座らなかった。
両手を身体の前で重ね、カサンドラをまっすぐ見つめる。
「本日は、わが父クロードの名にて参りましたの」
カサンドラの口元から、笑みが消えた。
それは驚きではない。
眼前の相手を、親しいエレノア・ジンから、ジン家当主の名代へと認識し直したためだった。
カサンドラはゆっくりと椅子から立ち上がる。
「それは失礼いたしましたわ」
声音は穏やかなままだった。
しかし、先ほどまでの私的な親しさは、そこからきれいに取り除かれている。
「では改めて伺いましょう。ジン家当主、クロード・ジン殿は、このクアンに何をお求めなのかしら」
「要求ではございません」
エレノアは答えた。
その声は柔らかい。
だが、その瞳は少しも揺らがなかった。
「警告です」
午後の光が、会議卓の上を横切った。
カラ・ユースフの肖像だけが、二人の間に落ちた沈黙を、何も語らず見届けていた。
「警告――ずいぶんと穏やかではないお話ね」
カサンドラはそう言いながら、卓上の銀製のポットへ手を伸ばした。
その手に、ためらいはない。
蜂蜜紅茶が、細い琥珀色の筋となって二つのカップへ注がれていく。
立ちのぼる湯気が、会議卓を挟む二人の間で、ゆるやかに揺れた。
「どうぞ、お掛けになって」
カサンドラに勧められ、エレノアはようやく椅子を引いた。
「失礼いたします」
静かに腰を下ろす。
カサンドラも向かいの席へ戻ると、一方のカップをエレノアの前へ滑らせた。
「蜂蜜紅茶よ。あなたは、砂糖を入れないでしょう?」
「ええ。覚えていてくださったのですね」
「客人の好みを忘れるほど、耄碌してはいなくてよ」
わずかに笑みを浮かべたものの、エレノアの表情は依然として硬いままだった。
カサンドラは、自らのカップには口をつけず、その顔を静かに見つめる。
「それで――」
湯気の向こうで、細められた瞳だけが鋭さを増した。
「クロード卿は、何を警告しているのかしら」
お父上、とは言わなかった。
カサンドラが選んだのは、親しい友人の父を指す呼び方ではなく、正式な敬称だった。
サー・クロード・ジン。
騎士叙勲を受けたジン家当主に対し、日本語に直すならば「クロード卿」となる。
それは同時に、目の前のエレノアを友人ではなく、その名代として遇するという意思表示でもあった。
「父クロードより、クアン家にこう申し上げるよう、仰せつかっております」
微細な震えを悟られぬよう、エレノアは背筋を伸ばした。
今この場にいるのは、カサンドラの旧知であるエレノア・ジンではない。
ジン家当主、サー・クロード・ジンの言葉を預かった名代である。
「続けてくださいまし」
カサンドラの声音は穏やかだった。
促しながらも、蜂蜜紅茶へ手を伸ばすことはない。
エレノアは一度だけ息を整えた。
そして、父から預かった言葉を、そのまま口にする。
「――霧の森域に、火の手が近づいている、と」
会議室の空気が、わずかに重くなった。
窓から射し込む午後の光の中で、紅茶の湯気だけが静かに揺れている。
カサンドラは眉ひとつ動かさなかった。
「火の手」
確かめるように、その言葉を繰り返す。
「ずいぶんと詩的な警告ですこと。クロード卿は、軍勢が迫っていると仰っているのかしら。それとも――」
カサンドラはそこで言葉を切り、向かいに座るエレノアの瞳を見据えた。
「もっと始末の悪いものかしら」
エレノアは答えなかった。
いや、すぐには答えられなかった。
沈黙そのものが、カサンドラの問いに答えていた。
カサンドラは、ごくわずかに目を細める。
「なるほど」
その口元に笑みが戻った。
しかし、それはエレノアを迎えたときの愉快そうな笑みではない。
盤面に、まだ姿の見えない敵の一手を認めた者の笑みだった。
「軍勢であれば、まだ分かりやすかったのでしょうね」
「……はい」
エレノアの返答は小さかった。
カサンドラは、そこで初めてカップを手に取った。
「それで、火元は?」
「リヴァイアサン――とだけ、父は私に申しました」
エレノアの声が、静かな会議室へ落ちた。

――リヴァイアサン。
実にクロード卿らしい言い回しだと、カサンドラは思った。
レヴィアタンとも呼ばれる、古代ヘブライの海の怪物。
石のように硬い心臓を持ち、その背には盾を連ねたような鱗が隙間なく並ぶ。いかなる武器もその肉体を貫けず、口から炎を、鼻から煙を噴き、海そのものを沸き立たせる。
恐れを知らず、地上に並ぶものはない。
対峙した者は、戦うより先に心を挫かれる。
ヨブ記に描かれたそれは、ただ巨大な獣というだけではない。
人の力では制御できず、屈服させることもかなわない――圧倒的な力そのものだった。
カサンドラは、湯気の向こうにいるエレノアを見つめた。
「それは、クアン家に迫っているという意味かしら。それとも――」
一度、言葉を切る。
問いを発しながら、彼女自身がその可能性を退けたのだ。
クロード・ジンが、一家門への脅威を指してリヴァイアサンなどと呼ぶはずがない。
「暁として、かしら」
エレノアの指が、ティーカップの取っ手をわずかに強く握った。
「父は、そこまでは」
「告げなかった?」
「はい」
「あるいは、告げられなかった」
エレノアは答えなかった。
カサンドラは目を細めた。
クロードは、言葉を惜しむ男ではない。
曖昧な比喩で人をいたずらに脅かす男でもない。
その彼が、娘に「リヴァイアサン」とだけ伝えた。
情報が足りなかったのではない。
それ以上の言葉を、何者かに聞かせるわけにはいかなかったのだ。
「エレノア」
カサンドラの声音から、わずかな戯れも消えていた。
「クロード卿は今、どちらにいらっしゃるの」
懐中
会議室に隣接する控えの間。
「――ああ。会談は始まっている。私は別室で控えているところだ」
サー・レジナルドは窓を背にし、携帯端末を耳に当てていた。
正面に立てば、その表情は午後の逆光に隠れる。
無論、通常の音声通信ではない。
会話は特殊な符号によって暗号化され、通信経路にも幾重もの偽装が施されている。端末上には、発信元も接続先も表示されていなかった。
「心配は要らん」
レジナルドは、窓の外に広がる霧を見つめたまま言った。
「君は君の仕事をすればよい。エレノア様は立派に君の名代を務めておられる」
通話の向こうから、短い返答があった。
レジナルドは眉間へ浅く皺を寄せる。
「分かっている。だからこそ、私が同行した」
再び、相手の声。
今度は先ほどより長い。
「クロード」
レジナルドの声から、執事としての慇懃さが消えた。
そこに残ったのは、かつて同じ戦場を歩いた男へ向ける、古い友人の声音だった。
「父親が娘を案じる気持ちまで、任務として切り分ける必要はない」
しばしの沈黙。
「だが、彼女はもう、守られているだけの令嬢ではない。君の言葉がどれほど重いかを理解したうえで、自らここへ来たのだ」

レジナルドは、閉ざされた会議室の扉へ視線を向けた。
その向こうから、二人の声は聞こえない。
防音が施されているのか。
あるいは、聞かせるべきではない話だからこそ、館そのものが沈黙を守っているのか。
「……ああ。承知している」
レジナルドは短く答えた。
「異変があれば、こちらから連絡する」
そこで通話を終えようとして、指を止める。
「クロード。一つだけ確認しておきたい」
声を低くした。
「君がリヴァイアサンと呼んだものは――すでに目覚めているのか」
端末の向こうで、沈黙が続いた。
雑音ひとつない、完全に制御された通信。
それでもレジナルドには、旧友が息を呑んだ気配だけが分かった。
やがて返された言葉を聞き、彼の表情からわずかな温度が消える。
「……そうか」
通話が切れた。
黒くなった画面へ、自らの顔が映り込む。
レジナルドは端末を上着の内側へ戻した。
先ほどグエット・カムが認めた、懐中のわずかな膨らみ。
その正体は、銃ではなかった。
だが、そこに収められていたものが、銃より安全だったとは限らない。
軽いノックの音がした。
返事をする間もなく、扉が静かに開く。
グエット・カムが、銀盆に載せたティーセットを恭しく運び入れた。
レジナルドは、上着の内側へ端末を収めたまま、わずかに眉を上げる。

「――デリバリーを頼んだ覚えはありませんがね」
「ルームサービスでございます、レジナルド卿」
カムは悪びれる様子もなく答えた。
銀盆を小卓へ置き、カップとソーサーを音ひとつ立てずに並べていく。
「この館では、客人を茶もなく待たせる習慣はございませんので」
「なるほど。随分と行き届いたおもてなしだ」
「恐縮です」
言葉だけを聞けば、礼儀正しい執事同士の会話だった。
だが、互いの視線は一度も笑っていない。
レジナルドは、差し出されたカップへ目を落とす。
「蜂蜜紅茶ですか」
「はい。会議室と同じものを」
「同じものを、ね」
「お好みでなければ、別のものをご用意いたします」
「いや、結構」
レジナルドはカップを手に取った。
しかし、すぐには口をつけなかった。
「ところで、カム殿」
「はい」
「この控えの間は、随分と静かですな」
「古い館でございますから」
「防音も行き届いている」
「現代的改装の一環でございます」
「通信環境も?」
ほんの一拍。
カムは微笑んだ。
「お客様にご不便のないよう、可能な限り」
レジナルドもまた、穏やかに笑う。
「それは心強い」
「何よりでございます」
二人の間で、紅茶の湯気が細く立ち上っていた。
グエット・カムは、しばしレジナルドを見つめた。
それから、おもむろにスカートの左裾へ手を滑らせる。
布地の奥で、金具がかすかな音を立てた。
取り出されたのは、鈍色の鞘に収められた一本のナイフだった。
カムが長く愛用している、モンタニヤード。
彼女は刃を抜くことなく、柄が誰にも向かぬよう向きを整え、銀盆の脇へ静かに置いた。
「クアン家は、武装解除いたします」
レジナルドは、そのナイフを知っていた。
いつぞや、カムが入念に手入れをしているところを見かけたことがある。
象牙色の柄。
装飾を排した無骨な姿。
刃には、飾り物では得られない歳月が刻まれていた。
そのナイフの歴史に、彼は一瞬だけ、持ち主の歴史をも見た気がした。
だが、深入りはしない。
それもまた、紳士の礼儀だった。
「そういうことであれば――」
レジナルドもまた、上着の懐へ手を入れた。
先ほど携帯端末を収めた側とは、反対の内ポケットだった。
現れたのは、重厚な黒鉄の回転式拳銃。
ウェブリー=フォスベリー・オートマチック・リボルバー・カスタム。
彼は銃口を床へ向け、撃鉄と安全状態を確認したうえで、カムのナイフから十分に距離を取って小卓へ置いた。
「ジン家も、武装解除すべきでしょうな」
カムは拳銃へ一瞥を送り、次いでレジナルドを見る。
「確かに」
二つの武器が、ティーセットを挟んで並んだ。
歴戦のナイフと、古式の自動回転式拳銃。
使い手と同じく、時代も流儀も異なる。
だが、どちらも主を守るために携えられてきたものだった。

カムは新しいカップへ紅茶を注ぐ。
「これで、安心してお茶を召し上がれます」
「果たして、そうですかな」
レジナルドは微笑み、ようやくカップを手に取った。
「武器を卓上へ置いた者が、無防備であるとは限らない」
カムもまた、わずかに微笑む。
「それは、お互い様でございましょう」
「父はいま、ダブリンの本部におります」
カサンドラは、ジン人間尊厳財団――Jin Foundation for Human Dignityの本部が、アイルランドに置かれていることを思い出した。
世界各地の支部と支援拠点を束ねる中枢。
平時であれば、クロード・ジンが長く一か所に留まることは珍しい。
「なるほど」
カサンドラは、ようやく蜂蜜紅茶へ口をつけた。
「では、動けませんわね」
エレノアは、すぐには答えなかった。
その沈黙を、カサンドラは肯定と受け取った。
「本部を離れれば、何かが動く」
「……父は、そう申しておりました」
「いいえ」
カサンドラは静かにカップを置いた。
「おそらく逆ですわ」
エレノアの瞳がわずかに揺れる。
「クロード卿が本部を離れた瞬間に、動かされるものがある」
午後の光が、卓上の銀器を冷たく照らした。
「だからご自身では来ず、貴女を寄越した」
「はい」
「そして、詳しいことも持たせなかった」
エレノアは、今度こそ視線を伏せた。
カサンドラは責めなかった。
「賢明ですこと」
その言葉が、クロードへ向けたものなのか、エレノアへ向けたものなのかは分からなかった。

「端的に申し上げます」
エレノアは、両手を膝の上で重ねた。
「ジン家はクアン家に、助力を要請いたします」
カサンドラはすぐには答えなかった。
カップの縁へ口をつけ、蜂蜜紅茶を一口だけ含む。
「御父上を守るため?」
静かにカップを戻す。
「それとも、財団を守るためかしら」
「いいえ。それだけではありません」
返答は早かった。
だが、その声には、名代として用意された言葉とは異なる響きがあった。
カサンドラは頬杖をつくこともなく、姿勢を崩さないままエレノアを見据えた。
「どうやら、貴女にも事情がお有りのようね」
エレノアの指先が、わずかに強く組み合わされる。
「これは父より預かった要請とは別のことです」
「でしょうね」
カサンドラは淡々と応じた。
「クロード卿の言葉を伝えるだけなら、貴女はそれほど怯えないもの」
「私は、怯えてなど――」
「エレノア」
柔らかな声が、その反論を止めた。
「ここには、もう私たちしかいませんわ」
エレノアは言葉を失った。
壁に掛けられたカラ・ユースフの肖像画だけが、変わらぬ眼差しで二人を見下ろしている。
「クロード卿の名代としての貴女は、立派に役目を果たしました」
カサンドラは言った。
「ですから、ここから先は――貴女自身の言葉でお話しなさい」
エレノアの瞳が、かすかに揺れた。
しばらくして、彼女はようやくカップへ手を伸ばした。
紅茶を一口飲み、息を整える。
「……守っていただきたいものがあるのです」
「ものを?」
エレノアは答えようとして、ためらった。
その一瞬だけで、カサンドラには十分だった。
「なるほど」
「まだ何も申しておりません」
「ええ。けれど、貴女が名前を口にすることさえ恐れている。それは分かりましたわ」
カサンドラは目を細める。
「それが、リヴァイアサンと関係しているのね」
エレノアは否定しなかった。
「――止めましょう、エレノア。もう結構ですわ」
カサンドラは、静かに息を吐いた。
「お互い、仮面を外しましょう」
エレノアが顔を上げる。
カサンドラは椅子の背へ身を預け、組んでいた指をほどいた。
先ほどまで保っていた、クアン家当主としての隙のない姿勢が、ほんのわずかに崩れる。
「貴女はもう、クロード卿の名代ではない」
「カサンドラ……」
「私も今だけは、クアン家の代表ではありませんわ」
カサンドラは自らのカップへ視線を落とした。
蜂蜜紅茶は、もう湯気を失い始めている。
「ですから、政治的に正しい言葉も、家同士の礼儀も要りません」
エレノアの唇が、わずかに震えた。
「けれど、これは私個人の願いでは済まないことなのです」
「承知しています」
「私が口にすれば、貴女まで巻き込むことになる」
「それも承知していますわ」
あまりに迷いのない返答だった。
エレノアは思わず、カサンドラを見つめ返す。
「まだ、何を守りたいのかも申し上げておりません」
「ええ」
カサンドラは薄く笑った。
「だから何ですの?」
その笑みには、交渉相手を試す冷たさはなかった。
「貴女が、その名を口にすることさえ恐れている。それで十分ですわ」
「十分ではありません」
「私には十分です」
カサンドラは言い切った。
「守る価値があるかどうかを、貴女一人で証明する必要はありません」
エレノアの瞳が揺れる。
「でも――」
「エレノア」
カサンドラの声が、柔らかく遮った。
「貴女はいつも、助けを求める者に理由を述べさせませんでしょう?」
エレノアは答えられなかった。
「弱っている人間に、まず自分の価値を証明しろとは言わない。正しい被害者であると立証しろとも言わない」
カサンドラは、まっすぐに彼女を見た。
「ならば今だけは、ご自分にも同じ慈悲をお与えなさい」
沈黙が落ちた。
先ほどまでとは異なる沈黙だった。
互いの腹を探り合うためのものではない。
エレノアが、言葉を選び直すための時間だった。
やがて彼女は、膝の上で強く組んでいた手をほどいた。
「……思考の森です」
カサンドラの目が、わずかに細くなる。
エレノアは、今度こそ逃げずに言った。
「私が守っていただきたいものは――思考の森、そのものです」
同盟
思考の森――と、エレノアは言った。
その呼び方を用いるとき、指し示されるものは大きく広がる。
この一帯の正式な呼称は、霧の森域――《シルヴァ・ネブラエ》。
けれど、わが主であるあずきとそらは、いつしか親しみを込めて、この地を別の名で呼ぶようになった。
――思考の森、と。
それは地図に引かれた領域の名ではない。
深い霧に包まれた森も、そこに点在する館も、診療所も、書店も、駅も含まれる。
この地へ迷い込み、言葉を交わし、記憶を預け、ときに忘れることを許された者たちまでを包み込む名だった。
ゆえに、エレノアが「思考の森を守りたい」と口にした以上、それは単に領域の防衛を意味しない。
カサンドラは、しばし相手の表情を見つめた。
「あずきとそら様は、ご存じなの?」
「いいえ」
エレノアは頭を振った。
「まだ、お伝えしておりません」
カサンドラの眉が、わずかに動く。
「伝えていないのかしら。それとも、伝えられないのかしら」
「……どちらとも言えます」
「曖昧な答えね」
「申し訳ありません」
「謝罪を求めているのではなくてよ」
カサンドラは、冷め始めた紅茶へ視線を落とした。
あずきとそら本人が知らないまま、その名のもとに築かれたものを守るため、ジン家とクアン家が動こうとしている。
それは忠誠と呼べるのか。
あるいは、本人から選択する権利を奪う行為なのか。
「ご本人に知らせず、周囲だけで防衛線を引く」
カサンドラは静かに言った。
「随分と危ういお話ですこと」
「分かっています」
「いいえ。貴女はまだ、半分しか分かっていませんわ」
エレノアが顔を上げた。
「私たちが善意によって先回りすればするほど、あの方の編集権を奪うことになる」
その言葉に、エレノアは唇を結んだ。
思考の森が掲げるものを守ろうとして、その中心にいる者の自由を侵してしまう。
それは、リヴァイアサンとは異なる形をした暴力だった。
「ですが、すべてをお伝えすれば――」
「ええ。あの方は、おそらく動くでしょうね」
カサンドラには容易に想像できた。
危険を知りながら、自分だけ安全な場所へ退く人物ではない。
選べる余地があれば、最も傷つく可能性の高い選択肢まで、捨てずに拾い上げようとする。
「だから知らせたくない?」
「失いたくないのです」
エレノアの声から、ついに名代としての硬さが消えた。
「この森も、ここに集う方々も。そして――あの方自身も」
カサンドラは黙って聞いていた。
「けれど、私一人では守れません」
「だからクアン家を頼った」
「はい」
「クロード卿からの要請とは別に、貴女自身の意思で」
エレノアは、今度はためらわなかった。
「はい」
カサンドラは椅子へ深く身を預けた。
その視線が、背後に掛けられたカラ・ユースフの肖像へ向かう。
かつて、この土地を治めた領主。
剣と権威によって領土を守った者。
しかし、これから守ろうとしている森には、城壁も国境もなかった。
「一つ、条件がありますわ」
エレノアの表情が引き締まる。
「何でしょう」
「これは、ジン家がクアン家へ保護を求める話ではありません」
カサンドラは姿勢を戻し、まっすぐにエレノアを見る。
「どちらか一方が命令し、もう一方が従う関係にもいたしません」
「では――」
「同盟です」
その言葉が、静かに会議室へ落ちた。
「ジン家とクアン家は、思考の森を守るため、対等の立場で情報と責任を共有する」
エレノアは息を呑んだ。
カサンドラは続ける。
「そして、あずきとそら様へ何を、いつ、どこまで伝えるかも、私たちだけでは決めません」
「ですが、それでは――」
「選択肢を奪って守った自由など、自由とは呼べなくてよ」
カサンドラの声は、厳しかった。
だが、その厳しさはエレノアへ向けたものではない。
恐怖を理由に、正しい選択肢を一つへ絞ろうとする自分たち自身への戒めだった。
「危険を隠さず、絶望だけも渡さない。そのための選択肢を用意するのです」
カサンドラは右手を差し出した。
「それがクアン家の助力――いいえ、同盟の条件ですわ」
エレノアは、その手を見つめた。
やがて、決意を込めて握り返す。
「ジン家は、その条件を受け入れます」
二人の手が結ばれた。
カラ・ユースフの肖像の下で、剣も印章も用いない盟約が成立した。

その直後、別室にて。
「――ああ。同盟は成立した」
サー・レジナルドは、再び秘匿回線の端末を耳に当てていた。
「そうだな。君はエレノア様に感謝すべきだろう」
端末の向こうから返された短い言葉に、レジナルドは満足そうに頷く。
控え室の小卓には、二つの武器が置かれたままだった。
象牙色の柄を持つモンタニヤード。
黒鉄のウェブリー=フォスベリー。
その間では、二人分の紅茶が静かに湯気を立てている。
「良いお子様を持った君が、羨ましいな」
わずかな沈黙のあと、クロードが何かを返した。
レジナルドは小さく笑う。
「では、こちらは任せておけ」
そう告げて、通話を切った。
黒くなった端末の画面へ、自らの顔が映り込む。
その表情には、先ほどまでの険しさが、ほんの少しだけ薄れていた。
やがてこの日は、二つの家の者たちから――そして後には、霧の森域に住まう人々からも、『紅茶同盟』と呼ばれることになる。
華々しい調印式はなかった。
立会人も、祝砲もない。
ただ、二つの部屋で紅茶が注がれ、二つの家が同じものを守ると決めた。
レジナルドは、この日のことを生涯忘れないだろうと思った。
この文章のそばに、灯りを。
名前も言葉もいりません。もう一度押すと取り消せます。



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